改めて再再度考え直してみました。

この大江地区は坂井から続く砂山が連なっていた地域でした。
大江地区にも「濱山」という小字が有る位ですので。

 





その砂山を明治の時代と思われますが削り取って宅地化、道路整備に費やして、現在の地形図に有る相良街道が開通した事は周知の如くで有る。
そして、そこを細かく分筆して宅地化した。
従って、坂井地区、大江地区の細分化された宅地部分は当時は砂山であった事が推測される。
意次氏はその砂山を避けて大回りをして江戸に帰った事となる。
坂井地区には宝典にも有る様なV字をした道は現在では無く直線的な道となりこれを地元の古老は「田沼街道」と言っている。
現在でも切り取った宅地部分とかなりの高低差を見出せる。
それだけ広大な砂山であった事が伺える。






そうして考えると、大江地区も砂山が有った訳なのでそれを迂回して行った筈だ。

地形図を見直してみると、かなり広範囲の砂山が確認出来る。
これを避ける為には山側に逃げるか、海川に逃げるかしかない。
推測論では海側と思える。





砂山の西側に一筋の小道を見出せる。
太田浜のバス停の有る民宿ますみの小路と思える。
これを山に向かうと、道標が有ったと言われる所に通じる感が有る。
とすれば、その道標が有った地点から東に「進んだんでは無く南に進み海沿いを進んだと考えられる。
とすれば、道標の金谷道と川崎道とが合致する。

が、進んで坂井地区に入ると更に砂山が待ち構えていて山側に逃げるしかない事となる。
そして、Vの字を描いた道を進んで砂山の切れ目で有るKレディーの所におりて来て相良街道をそのまま東進したと現在では推測する。