幼い頃、私は母を恐れていました。
母の死とともに終わったはずのその関係は、長い時を経て、親となった私の中で再び動き始めました。
今、ようやく言葉にして残そうと思います。


私は母が怖く、嫌いでした
母は小学校1年生で亡くなりました

母は私の両肩を揺さぶりお母さんは死なないよねと私に強く訴えてました

私が幼稚園に行きたくないと言うと両頬を叩かれました 歯が生え変わる時期でした 歯が抜けトイレで血を吐いた恐怖感を覚えています

小学校に忘れ物を届けにきてくれましたが、何度もその忘れ物を私に確認していました 私は立ち尽くしかありませんでした
母は先生に抱きしめられ泣いていました

父はいつも優しかったので、私は父が大好きでした

しかし今、親となり、子に向き合うと、別の視点を持つようになりました

母は聡明な方だっと父から聞きました
北国出身で、祖母はお花の先生でした
私には3歳年上の長兄がいます
北国生まれです

第二子は流産だったようです
そして私はまた別の都市で生まれましたが、生後1ヶ月で母の故郷に戻ります

その後母にとって最愛の祖母が癌で亡くなります
そして家族で田舎へ転勤します

私の怖く辛い、この苦しい痛みの記憶は、その田舎の頃のものです

私が親となり働きながら育児の大変さを痛感する一方で、父や母の当時の事を考えます

父は営業職で家を留守にすることが多かったですが、土日はよく家族で遊びました
しかし母が父に泣きつく姿や怒る姿も覚えています

育児で大変な母を何故父はもっと助けてあげなかったのと私は軽く考えていました

父は母が思い詰めていた事には気付いていたと思います

亡くなった理由は風邪を拗らせたと聞いた事がありますが、恐らく重篤な精神疾患で悩んでいたと思います

自宅で眠るように布団で亡くなっていたのですが、長兄が起こそうとすると死んでいたようです

薬の過剰摂取も今は想像します

私達は田舎の一軒家に住んでいました 何故もっと駅前のマンションのような便利な立地にしなかったのか、父をジョークで軽んじた事もあります

その後今親となって分かったことがあります

母は第一子を妊娠した時から、緊急事態だったわけです
その後翌年には第二子を流産するという想像を絶するショックな経験をしたようです

そして私を見籠りますが、故郷からまた別の街に転勤になりました

心身だけではなく環境も変わる大変な負担だっただろうと想像します

そして最愛の祖母が末期癌で亡くなる直前、故郷になんとか父が戻してもらうように働きかけたようです

父もまた北国で勤めていましたが、大きな都市に転勤となった、いうなれば栄転や今後の昇進を恐らくゼロそしてマイナスにするものだったかもしれません

私は父と同じ職種になった今、この見当は外れていないと思います

そして祖母は亡くなります
全く縁もゆかりもない田舎の一軒家に引っ越します
父は父の営業担当エリアの近くでかつ、広い庭付きの一軒家が母に安らぎや癒しをもたらすと考え、そのような場所を選んだようです

しかしながら母はもう心身がボロボロになっていたと思います

そして誰も知り合いのいないなか、孤独だったと思います

最愛の兄と弟に助けを求めたのでしょう

私達少なくとも私にはそれがわかりませんでした

母を恐怖の対象と見ていましたし、亡くなった時は、解放されたと、ホッとした気持ちだった事も覚えています

母は、解決策を求めていたのでもなく、ただ一言、辛かったよね、大変だよねと寄り添ってもらいたかったと今は思います

私は後悔はありません

体験した、感じた事は変わりません

しかし、もしあの頃に戻れるのであれば、お母さん大丈夫だよと向き合いたくなります

そして母は私に一生懸命に向き合ってくれていたのだと思います

大切だったからこそ、私に愛着を求めたのだと思います

父はお墓に最愛の人、いつの日にか再会せんと刻みました

以前、父が、葬儀場で煙が上がったとき、母にかわいそうな事をさせたと呟いていました

私も、もし再会できるのであれば、真剣に、一生懸命私に向き合ってくれて、育ててくれて、ありがとうと言いたいですし

今ならあの怖かった母を抱きしめて愛をいっぱい注いでくれてありがとうと伝えられると思います

そして父も兄も同じ気持ちだと信じています

もう会えないですが、もう会えなくて良いと思ったあの頃の自分とは、今、別の自分が、母を抱きしめて、大好きだよお母さん、精一杯私のために生きてくれてありがとうと伝えます

そして今、今やっと、母とはもう会えない、母は亡くなったのだと、心が揺れます

いつの日かまた再会できる事を願って

この記録は私の光と影の一つです
ここまで読んでくださりありがとうございました