体調を崩した挙句、月初の慌ただしい時期に入り、少し間が空いてしまいました。
なんの話を書いてたっけなー?と思って、自分のブログを見直しちゃいました。

さて、ようやくポワント許可をいただいて、私のペースで踊れるように先生が配慮してくださっていた話ですよね。

安定しなかった家庭環境のせいで、私が諦めたものがあります。それは、舞台に上がること。
発表会なるものには、高校生になるまで出られませんでした。クリスマスコンサートだとか、バリアシオン発表会なども、ぜーーーーんぶお世話役に回りました。
後々裏方の仕事に就いたのは、そんな生活が影響したのでしょう。

発表会などに出るとなると、当時は母の会なんてものに入って、お月謝とは別に、その母の会費をお支払いしなければならないシステムでした。
その会費は、発表会の時のお弁当やゲストの方のおもてなし、記念品などにあてられていたようです。それらを仕切って準備するのは、生徒のお母様たち。
母のいない私は、母の会に参加できないわけでして、結局、協力ができないという理由で、母の会には入れませんでした。(何故か会費は払ってた)肩身が狭くて、発表会は出たことがありません。低学年の頃は、発表会の時期になると一旦辞めていました。高学年になると、小さな子たちのお世話やお団子ヘア作り、先生たちのお茶の用意などで、裏方仕事をする事で、発表会に参加しているという名目になっていました。

まあ、発表会に参加する費用も結構高いので、用意できたかどうかわかりませんでしたし、これで良いのだと、子供ながらに納得していました。
影で何を言われてたか、今になれば想像できますけど滝汗

初発表会は、高校生の時。
スーパーでバイトしてお金を貯め、その金額の範囲内で収まるようにお願いして、二曲踊ることができました。
くるみ割り人形の中の、スペインの踊りと創作の二曲。あっという間に終わってしまって、味気なかったのを覚えています。

幼い頃から、舞台に立てていないとなると、舞台人としては致命的です。
舞台は数をこなしてなんぼなところがあり、本番で皆うんと成長します。舞台で得た悔しさや反省、拍手を貰った喜びなどが糧になるようです。緊張の中でも、稽古場と同じように踊れるのも、やはり舞台に慣れていかないとできないことでしょう。
素質がある、と思われれば、えこひいきと言われようがなんだろうが、とにかく役を与えて舞台にあげまくったり、コンクールに出したりする先生がおいでになるようですので、本番で育つというのはやはり効果があるのでしょうね。

さて、何も経験できなかった私は、背の高さ以外特に目立つところもなく、凡人として稽古場におりました。表舞台で生活できる訳がないと、かなり早い段階で悟っていたので、見果てぬ夢を追いかけてドンキホーテになることもありませんでした。
それでも、やはりどこかに心残りがあったのでしょう。後々、裏方への道に進みました。
その話は、このブログの最初にかいたエピソードです。