WOWOWでラグビーTOP14などを見ているとフランス語でスクラムの3段モーションの掛け声をかけています。
しかし、この掛け声を解説してくれる人が一人もいなくモヤモヤしていました。
英語だと、クラウチ、バインド、セット、です。
それで、歌を教えているフランス人の方に聞いた所、すぐに教えてくれました!
Flexion, lier, jeu !
だそうです。
気になっていた方がいたら今度注目してみて下さい^_^
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「かやの木山の」という北原白秋と山田耕作コンビの日本歌曲が有ります。
ネットを見渡したところ、歌詞にある「お猿がなくだで」の所についての解説があまり見当たらないので書いておこうと思います。
このお猿というのは、実は二つの意味が隠されていると思われます。
一つは戸を閉める為の道具、「猿」です。
昔の板戸についていたのを覚えています。
故に、「かやの木山の」では、風でも吹いて板戸の猿がキシキシと鳴くので、もう寝なさいよという意味でしょう、と音大の時習いました。
これは一つ目の意味としてまず合っていると思います。
ではもう一つの意味は何でしょうか?
それは動物の猿が鳴くからもう寝ましょう、という意味です。
いやいや、そんな訳ないでしょう、と思う方がここまで読むと殆どだと思います。山の中に住んでいた自分も猿の鳴き声は聞いた事が有りませんから。
でも、文学部にいた時、漢文の鷲野先生が教えて下さったのです。
中国で猿の鳴き声は、日本で言う所の鹿の鳴き声の様な物ですよ、と。
カセットテープで録音も聞かせてくれました。
北原白秋レベルの人がこの事を知らない筈は無いと思われますので、「かやの木山の」のお猿は掛け言葉だと考えるのが自然ではないでしょうか。
白秋という名前にも漢文的な意味が有りますし。(五行説に基づく秋の色は白)
という事で、「かやの木山の」を歌う時、日本の中国にまで繋がる深い文化を感じながら歌って貰えると良いなあ、と思います。
YUBAメソッドのインストラクター仲間でパソコンの達人の方が、Solocontuttiという、おそらくアメリカのアプリを発見しました!
このアプリは、YAMAHAのシンクルームや海外で有名なJamkazamと違い、Wi-Fi接続可能な事が画期的です。
パソコンを使って、オーディオインターフェイスを接続し、更に有線LANだとどうしてもかさばりますが、SolocontuttiはWi-Fi接続可能で、しかもiPhone、iPadでも利用可能なのです。Android版も準備が進んでいるとの事。
こうなるとオンライン音楽レッスンの革命に近いです!
順調にこのアプリが成長すれば、iPhoneと付属のイヤホンマイクでレッスンする人が増える事でしょう。
実際、お互いiPhoneとiPodで接続し、私が「隣のトトロ」をピアノで弾いて滋賀のインストラクターの方と一緒に歌う事が出来ました。
色々なアプリを試しましたが、手軽さという点でSolocontuttiは無限の可能性を秘めていると思われます。
今のバージョンは英語しか対応していませんが、難しい操作は無いので、ちょっとしたチュートリアルを作れば誰でも使える筈です。
これは掘り下げて行かねば😄
声楽という言葉は私はとても好きです。声を楽器として使うのがクラシックにおけるボーカルだと思うからです。
しかし、その教育は1800年代初頭から混乱を極め、現在に続いています。
日本においてクラシック音楽で一番人気がある楽器は何でしょうか?
おそらくピアノだと思います。
次が、管弦楽、そして歌と続いている印象があります。
しかし、音楽の成り立ち等を考えた場合歌が一番愛されて良いはずなのです。
では、何故ポピュラー音楽では最高に人気がある歌手、歌が、クラシックでは一番になれないのでしょうか?
その一つの原因は言葉にあるでしょう。
イタリア語、ドイツ語、フランス語、様々な言語で歌われる故に、日本語で歌われるポップスやロックに負けてしまうのです。
でも、英語で歌われる洋楽ファンも沢山います。これだけでは説明がつきません。
そこで第2の理由として考えられるのが、特殊な発声にあると考えられます。
声楽の声というと漠然と、特殊な声を出さなければならないと皆さんは考えるのではないでしょうか?
大きな声で迫力があって、こもっていたり、あるいはソプラノの金属的な高音であったり。
しかし、これらの声は本当に魅力的なのでしょうか?
例えば、オペラ歌手の声を聞いて、その人の話し声が想像できるか考えてみて下さい。おそらく、イメージ出来ない人が多いと思います。
音楽とは言葉に出来ない想いを託すものですが、歌は唯一そのまま言葉が使える楽器です。故に分かりやすいのです。
だから、バンドでもボーカルは大人気です。
フロントマンと言われるのは言い得て妙です。
そして、ポピュラー音楽のボーカルの声は、その人の話し声の延長が歌声として使われています。
だからとても魅力的なのです。
では、声楽はどうでしょう。
話し声がイメージ出来ないという事は、シンパシーを抱きにくいと言えます。
その様な歌を聴きたいと人間は思うのでしょうか?
私が子供の頃、音楽の授業でバリトン歌手の真似をしました。
そしたら、教室のみんなが笑ったのです。子供の感性は正直です。
田舎の小学校の無知な子供だから笑ったのでは無い筈です。
奇妙だから笑ったのです。
(高校の時にその声で歌ったら、とても褒められましたが)
綺麗な声、美しい声なら人は感動します。
ミュージカル俳優の方が小学校に演奏に行ったら、「お姉さんの声、とっても綺麗!」とみんな目を輝かせたと聞きました。それが普通の反応です。
ミュージカル俳優の発声は様々ですが、話し声と乖離していませんから、感動しやすいのだと思います。
しかし、声楽は残念ながら9割以上の歌手がどう聞いても特殊な声です。
ただ、仕方ありません。それが正しい声楽、オペラだと教育されるのですから。
私が大好きだったパヴァロッティの声は、声楽としては特殊な声で、そして自然でした。
彼のインタビューを聞いた事もありますが、歌になっても話し声が膨らんだだけなのです。
偉い先生に褒められた発声であったとしても、聴衆は正直です。
魅力が無ければリピートしませんし、CDも買いません。
日本の凄いテノールが沢山出るコンサートに行った事があります。
確かに、高い声も出るし、大きな声で凄い迫力です。
でも、それだけなのです。
演奏が終わった後、ご婦人方の話に耳を傾けると「凄かったわね〜〜」という声しか聞かれません。
それに対して、自分の大好きなシラグーザというイタリアのテノール歌手のコンサートで入場するのに並んでいると、前にいたご婦人が「この方のカンツォーネが素敵で」と言っていたのです。
全てはこの一言に表されていると私は考えます
ベルカント、とは美しい歌唱の意味です。
ドラマティックな歌唱では無いのです。
それでは教会音楽や初期のオペラから美しい歌唱は無かったのでしょうか?
そんな事はありません。美しい歌唱は確かにありました。
しかし、劇場の巨大化やオペラの様式の変化により大きな声がもてはやされ、美しい声、歌唱が影を潜めていったと考えられます。
本来声楽も初期のミュージカル俳優の様な発声をしていたが、特殊な声が注目を集め、皆んなが始めると目新しくなくなり、新しくクラシックを聴いた人々には理解不能、という負のスパイラルです。
それを象徴するのが、ロッシーニの呟きです。
「ああ、残念なことだ、我らのベル・カントはなくなってしまった」と1858年に嘆いたのです。
そして、逆にベルカントという言葉が神格化され、声楽の理想として一人歩きを始め、どの様な歌唱をしていても全てベルカントになったのです。
優雅で美しく、そして力強いテノールでなく、激しく強い声だけでもベルカントと呼ばれたのです。
これはとても残念な事です。
歌(声楽)は最高の芸術の一つであるのに、その多くで美しさを失っているからです。
ではロッシーニが考えた声楽の理想とはどの様なものだったのでしょうか?
それを紐解くには教会で行われていた歌唱から考えなければなりません。
歌の根本はどの国でも宗教との関係が深いことを考えれば当然ともいえます。
さて中世の教会で、歌手は成人男性の聖歌隊しかいませんでした。
日本で言うとお経にメロディーがついた感じで、それは支えるという意味のテノールと呼ばれました
これが当時の教会音楽では単旋律として奏でられ、神への祈りですから、荘厳に天に届くよう美しく歌われていたはずです。
そして、ハーモニーを作りたいという欲求が生まれたはずです。声の低い人達がバスになりました。バスという意味は単純に低いという意味です。
男性の2声で歌い始めると今度はファルセットでアルトを歌う事を考え始めます。
アルトの言葉の意味は「高い」です。
さて、これで3声の合唱になりました。
でも、これでは我々に馴染み深い4声の合唱になりません。
ソプラノが足りません。
ただし、成人男性の聖歌隊で賄うには声が高すぎます。
そこで目をつけたのが、ボーイソプラノです。
これでめでたく4声の合唱となりました。
ただ、良い事ばかりではありませんでした。
ボーイソプラノも大きくなれば声が低くなります。
女性を連れてくれば良いじゃないかと思うかもしれませんが、
当時の教会は女人禁制です。
そこでイタリアの教会で考えられたのが、少年達の去勢です。
あんまりだと思いますが、現在でも動物の去勢をするように、人間に対しても昔のイタリアでは病気の治療になると信じられていた様です。
なので、特別、非人道的な行いという認識だったかどうかは分かりません。
ただし、抗生物質が無い時代の外科手術ですから、死者も出ましたし、手術した全てが大人になって良いソプラノになるわけではありませんから、不幸な人を作った事は間違いありません。
ただ、去勢の是非は別として、教会音楽はボーイソプラノを含めた4声の合唱になった訳です。
ちなみにソプラノの意味は、上という意味です。
アルトで高いを使ってしまったので、その上と言うことなのでしょう。
さて、こう声楽の歴史を考えると、裏声と地声を鍛え分離し、行き来するという歌唱法は教会音楽の伝統と考えられ、男性がファルセットを使いアルトを歌う事や、テノールが高い音をファルセットで歌う事はなんの矛盾も無いという事になります。
そして、教会で鍛えられたエリート達はオペラの発明により劇場へと向かい始めます。
すると、瞬く間に彼等は人気者となりイタリアを中心とした空前のオペラブームが巻き起こります。
この時大活躍したのが去勢された歌手、カストラートです。
彼等の性別を超越した存在としての魅力と、地声と裏声を使い分けた歌唱は大衆を大いに驚かせ、魅了したのです。
そして、時代が去勢を許さない様になり、女性の音楽への進出も徐々に許される様になり、カストラートは歴史からその姿を消します。
それでは、カストラートが居なくなったのは理解できるとして、何故、男性がファルセットで歌う事がタブーになってしまったのでしょうか?
それはおそらく奏でられる音楽の変化と関係していると思われます。
先に話した様に、劇場は大きくなり、オーケストラも大編成となり、扱われる題材もオテロやマクベスなどシリアスな内容が多くなりました。
このような題材には、大きくて強い声が映えます。
モーツァルトやロッシーニが好んだ、楽しく優雅なお話が減り、地声と裏声を使い分けながら歌うような場面が減ったのです。
教会生まれの祈りがベースのこの発声は、人間の内面を激しく描写するには需要がなくなっていったのかもしれません。
その様な理由から、オペラは全編、混ざった声で歌われる事になっていったと思われるのです。
そして、現代、クラシックにおいて地声と裏声を使い分ける様な歌い方を聞く事はほぼ無くなりました。
ではポピュラー音楽はどうでしょう?
日本では美空ひばりさんはじめ、尾崎豊さん、平井堅さん、海外では、ホイットニー・ヒューストン、サムスミスなど地声と裏声を使い分けて感動を与え、ヒット曲に恵まれた歌手は枚挙にいとまが有りません。
それは、2つの声を使って歌う事が人間の生理にかなっていて、人間は本来2つの楽器を持つという祝福を受けているからと考えられないでしょうか?
感情面にしてもそうです。
ファルセットでは、祈りや悲しみ、優しさ、地声は怒りや主張、叫びなどに適していて、それらの感情を二つの声区を使うことで余すことなく表現する事が出来ます。
また、この二つを混ぜ合わせれば、オペラのテノールや、メタルのボーカルのように高い音でも力強く出すことで大きなインパクトを与える事も可能です。
それもこれも、全ては二つの声から始まった事なのです。
まず、声帯から声が出るという大原則に立ち返り、インナーマッスルや随意的に動かせない筋肉を直接動かそうという様な無理をやめ、赤ん坊が言語を獲得する様な、正しい声を順序良く真似してゆく発声メソッドを取り入れることから始めてはどうでしょうか?
10年以上歌う事を教えてきた経験からも、2つの声を分離、強化、使い分けて歌うまでは、多くの方で実現可能です。
また、声が混ざりやすい人は、使い分けが苦手な場合もあり興味深い所です。
裏声を忌避するのではなく、自分にはどちらが合っているのかを見定める事が、これからの歌唱教育に必要な事だと今の私は思っています。
唐突ですが歌の上手さとはなんでしょう?
普通の方は音程が合っていて、リズム通りに、感情がこもっている歌い方などを想像するのではないでしょうか。
その想像は間違いではないのですが、ポピュラー音楽のシンガーと呼ばれる人たちは状況が違うと私は最近特に感じています。
それではシンガーにとって一番大事なことは何でしょうか?
それは、舞台から聴衆に圧倒的なオーラを放てるかどうかだと思います。
存在感といったほうがわかりやすいかもしれません。
声楽家の場合は音程通り、リズム通り、良い声で歌うこと自体が難しいのでこれを達成するだけで舞台での存在感はある程度作ることができます。
しかし、ポピュラー音楽の場合は、誰でもある程度歌える音楽なのでアマチュアとプロの差が技術的にはつきにくい状態です。その時大事になるのは 、まさにその人の持っている存在感であると言えます。
東京ドームのような大きな会場で聴衆を酔わせるという能力は誰にでも与えられた能力ではないということです。
私の好きなベビーメタルもその力を持っている人たちなのでしょう。
あと、大きな会場でたくさんの人が待っているプレッシャーと戦わなければなりません。舞台に立つ前からすでにステージは始まっているのです。
二十歳前の女の子たちが何万人という人の前でライブができてしまうという、その能力に私は脱帽です。