「天(あま)が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」
「時」についての聖書の言葉の中で、私が好きな聖句がこの「伝道の書」の冒頭からの言葉です。
この後
「生まるるに時があり、死ぬるに時があり~泣くに時があり、笑うに時があり
探すに時があり、失うに時があり~保つに時があり、捨てるに時があり
愛するに時があり、憎むに時があり~戦うに時があり、和らぐに時がある」
続いています。
~は中略
これらの聖句を読むとき、私にはあれは「神」から与えられた「時」だったと思う事があります。
それは、決して優しいものではなく、辛く苦しい「時」でした。
灯りの見えない真っ暗やみのトンネルの中にいる様でした。
しかし、この経験から得るものも沢山ありました。
周りの人達の優しさが心にしみた「時」
私は負けちゃイケナイ。
私1人で戦っているわけじゃない。
みんなの力を借りて、みんなで乗り越えるんだよ。
支えてくれる人がいる「幸せ」を痛感させられました。
ギリシャ語には「時」を表す言葉が2つあります。それは「クロノス」と「カイロス」という言葉で
「クロノス」というのは、時計の針が刻む、いわゆる「量的」な時間で
「カイロス」は、1度限りの独自の「質的」な時間を示すものです。
「伝道の書」に綴られてある「時」というのは、かけがえのない貴重な「カイロス」のことです。
私が経験した「時」が、今日の私を創り上げたと言っても過言ではないのです。
あの「時」が、なかったら今はどうなっていたのだろうか?
「時」には、人知を超える導きみたいなものを感じざるを得ません。
私は幼稚園から大学までのミッション系の高校に通っていました。
週に1度「聖書の時間」という、道徳的な授業がありました。
他にも、心に響いた聖句はいくつかあります。
凹んだりしたときは、そっと聖書を開いてみたり
賛美歌を歌ったりしています。
すると、心が落ち着いていつもの自分に戻れるのです。
私流の私の「復興作業」とでもいいましょうかw