・私はいない。
・起きていることしかない。
・誰も何もしていない、自力はない。全自動。
・五感以外は幻想。
・私を含めた全ては概念、思考、言葉である。
そのような言葉に『感覚』をあてはめて
分かったことにしたいという自我性。
でも、分かったつもりの探求の終わりは
絶対にスッキリしないはずです。
マインドフルネスや心理学でラクになるような、
視野が広がり、出来事や自分を肯定的に受容できる感覚は、〜しなければならないという呪縛がゆるみ、さぞ身軽になったことでしょう。
でも実はそれって、恐れに蓋をして
そーゆーとこにしてしまったエネルギーの膜がピッタリと張り付き、なんとも言えない不快感や憤りも同時にあるのではないでしょうか?
私自身、一年間くらい一瞥を掴んだ経験があるので、よく分かります。
実際ラクになったことをブログでシェアしながらも、
相変わらずその手の本やYou Tubeを漁っていたのですから。
つまり、その状態に満足してはいなかったんです。
まだ煮えきらない感覚の元、他の可能性を探していたんですね。
ここをどれだけ素直に見れるか、
なんです。
自分に嘘をついてないか、、、
探求エネルギーが残っていないか、、、
本当に本当に求めることが終わったのか?
知識で分かったとしただけじゃないのか?
五感を対象物として観察するということは、
五感をリアルで確かなものとすると同時に
それを観察できるということは、その視点の持ち主を創ることにもなるんです。
すると、
この観察できる何かが確かさとなり、
対象物である『私』を含めた現実とは幻想である。
となるパターンが本当に多いです。
で、これを探求の終わりと判断し納得することが起きるってわけ。
これって
別の視点が、自力のなさに気付いた!
と言ってるだけで、非二元の気づきとは全然違うんです。
ここの違いは
ここからは明らかなんです。
この視点を、手に入れたのは
個人(自我性)です。
禅とかでいう、
あるがままに収まった安らぎの境地に辿り着いたのだ、と勘違いをしてしまうんです。
自己の不在が明らかになったのは誰でしょう?
静寂や安心の中にいるのは誰でしょう?
98%のスピーカーは
この自我トリックにハマりながら、
非二元やノンデュアリティーという看板を貼り付けて語っています。
個人が個人に向けての
個人を救うための希望のメッセージ。
ここから出る完全性は、
本当に純粋にリアルのみを指しています。
他の可能性など微塵もないリアルを。
リアルはリアルで常に明らかであり
それだけです。
愛も静寂も至福も安らぎも付いてない。
明らかさだけです。
探求が終わっていないこと と
分からないということを
素直に受け入れたとき
はじめてここで指す完全性が観えてくる。
そう思います。
そんな確信がここにあります。