27年前の1995年1月17日(火)、兵庫県南部地震により阪神・淡路大震災が発生しました。
本日の5時46分には起床していたので、NHKの放送を見ながら黙祷しました。
そこで、私の人生での3大天災について記載したいと考えました。
あくまでも、その時の自分のことを記述するだけであることをご了承ください。
犠牲になられた方々のご冥福をお祈りいたします。
【伊勢湾台風:1959(昭和34)年9月26日】
1959年9月26日に和歌山県潮岬付近に上陸し、紀伊半島から東海 地方を中心とし、ほぼ全国にわたって甚大な被害を及ぼした台風です。
私が生まれた知多半島は直撃ではなかったものの、台風は西側を通過したので、住居被害は多く、死者・行方不明者も511人という記録があります。
私はまだ2歳半だったので全く記憶はありませんが、家族は大変だったのではないかと想像されます。
【阪神・淡路大震災:1995(平成7)年1月17日 5時46分】
当時、自宅から会社へは50ccバイクで通勤していましたが、
その日は歓送迎会が予定されていたので、公共交通機関で出勤するために、5時過ぎに起床しており、5時46分はコンタクトレンズを装着している最中でしたが、洗面台に溜めた水が波打った程度でした。
たぶん震度4程度で、マンションの4階なので、まあまあ揺れましたが、家具などの配置と揺れ方向の関係で室内の被害は全くなく、家族はまだ寝ていました。
そんな程度だったので、6時半くらいのバスで地下鉄大日駅まで行ったものの、地下鉄は運休。
しかたなく自宅に戻ってバイクで出勤しようと考え、タイミングよく来た別ルートのバスに乗り、若干自宅から離れたバス停で降りて自宅に戻りました。
バイクで茨木市まで向かったのですが、淀川に架かる橋もすんなり通行できました。
しかしながら、茨木市内に入ると瓦が落ちていたりしており、地震の影響かと思いつつ、8時過ぎには事業所(工場)に到着したのですが、工場の窓ガラス(当時はサッシではなく、鉄枠にガラスをハメていた)がほとんど割れていました。
工場への出勤者も最終的には数十名で、被害状況の把握と安否確認をして、昼前には帰宅しました。
ちなみに同じ職場の出勤者は2名でした。
帰宅後に震災の被害の程度を知ることになるのですが、これほど甚大な被害を及ぼした地震とは思いませんでした。
【大阪府北部地震:2018(平成30)年6月18日 7時58分】
現在の勤務地に出勤中の地下鉄内で地震のことを知りました。
運よく、駅に停車中であり、その後の運行は中止となりました(揺れはほとんど感じませんでした)。
たまたま降車駅の2駅前だったので、徒歩で会社に向かいました。
9時前には会社が賃借しているビルに到着したのですが、案の定エレベーターは停止。
10階まで階段でのぼりました(あ~疲れた)。
昼前には帰宅指示が出され、既に運行していた地下鉄で帰宅しました。
帰宅してみると、家族から、今回の地震は、阪神・淡路大惨事に揺れ方向と異なっていたため、食器棚の扉が開き、数個のガラス食器が破損したという報告を受けました。
2011年6月まで勤務していた茨木市は震源地に近かったので、工場の被害はあったように聞いています。
・ 大阪に来て約40年。 大きな台風もいくつか襲来していますが、幸いにも被害はありませんでした。
★ 防災対応
日頃から防災意識を持たないといけないと思ってはいるものの、今の居住地で被災となれば、市全体も壊滅状態であり、避難どころではないかもしれないので、本格的な蓄えはしていません。
とりあえず、2020年3月に予定していたボルネオ旅行のために購入した食料品(保存期間5年:3人で3日分程度)がある程度かな。本来は水の確保が一番大切なのですが。