とりつくろうこともなく素直に表現すること、できる相手がいることはとても大切なことで、無理なく心情を理解してもらうには効果的であり心身の健康には欠かせないことだと痛感する。
人はカッコつけようと、人気を高めようと、上っ面のセリフや社交辞令を行うが、それはあくまで社会人として適応するためのツールであり、エゴでもある。エゴは大きくなると他の人にも迷惑であり、無責任でもあり、その者本人の人格まで落とし心をむしばんでゆく
俺はカッコつけだが、人を偽ること自分を偽ることしてはならない信条を大切にしている
かつてのビジネスの世界ではかなりの困難を克服するため自分自身に無理をし、それが自分を傷つてるものでもあったもだが、今思えば、それもしてみないと大きく成長しない ただ今の俺にとって無理は禁物であり、無理したからといってそれが叶うものとは限りない
重症うつ病だからといって、治りにくいと言われようが、諦めることは何も生み出さない 生み出すものは精神病特有の「死」の選択であり、不健康かつ病によって「正常」から逸脱している究極の状態といえよう
病にかかると、とかく主観的見解に苛まされるものだが、どうやら少しづつ客観的に「自己」を理解することによって不安感がだいぶ軽くなった そしてありのままの姿を受け入れることが徐々にできるようになってきた気がする。
病だからといって頭全部がおかしくなるわけではないのだ。そんな誤解で自分のIQを衰えさせてしまうのはもったいない。そもそもIQどころか潜在意識を まだ稼働していない脳を動くように純軟性や大きな視界力も無駄にはできない
人はポジティブにこだわるように思えてならないが、悲しみ 怒り 不満 も使い方によっては大きな力となる 心に素直に耳を傾け心の許せる相手に表現できると不安感も理屈なしに消え去っていくようである
一人で抱え込むことは決していい結果を導かないようだ
人はカッコつけようと、人気を高めようと、上っ面のセリフや社交辞令を行うが、それはあくまで社会人として適応するためのツールであり、エゴでもある。エゴは大きくなると他の人にも迷惑であり、無責任でもあり、その者本人の人格まで落とし心をむしばんでゆく
俺はカッコつけだが、人を偽ること自分を偽ることしてはならない信条を大切にしている
かつてのビジネスの世界ではかなりの困難を克服するため自分自身に無理をし、それが自分を傷つてるものでもあったもだが、今思えば、それもしてみないと大きく成長しない ただ今の俺にとって無理は禁物であり、無理したからといってそれが叶うものとは限りない
重症うつ病だからといって、治りにくいと言われようが、諦めることは何も生み出さない 生み出すものは精神病特有の「死」の選択であり、不健康かつ病によって「正常」から逸脱している究極の状態といえよう
病にかかると、とかく主観的見解に苛まされるものだが、どうやら少しづつ客観的に「自己」を理解することによって不安感がだいぶ軽くなった そしてありのままの姿を受け入れることが徐々にできるようになってきた気がする。
病だからといって頭全部がおかしくなるわけではないのだ。そんな誤解で自分のIQを衰えさせてしまうのはもったいない。そもそもIQどころか潜在意識を まだ稼働していない脳を動くように純軟性や大きな視界力も無駄にはできない
人はポジティブにこだわるように思えてならないが、悲しみ 怒り 不満 も使い方によっては大きな力となる 心に素直に耳を傾け心の許せる相手に表現できると不安感も理屈なしに消え去っていくようである
一人で抱え込むことは決していい結果を導かないようだ
統計上におるデータに過ぎないかもしれないが、日本では『お葬式』ぐらいに宗派にわかれてそれぞれの『式』を行うぐらいなもので、日常における活動(とはいったも各々が抱く信仰心 お祈り 語りかけなど)が行われることはほぼ特定の方のみ行われるようである。
もちろん、選択の自由であるから、無宗教もその一つであって、私自身もカソリックといいながら幼い頃から教会には行っていないで、自分の犯した心の罪を神父に告ることなどしていない。
部屋の壁に十字架をおき、毎晩語りかけるものであって教会に行って寄付などしたことは皆無である。どこか特定の宗派にそれ以上関与するわけでもなく、個人の自由として、神は私の心の中に存在するものと信じ自己を保っている。情報社会の中、どれが正しいものか分別も自分を持てる観点から行っている。
この資本主義にどっぷり浸かって物事の分別さえも左右されかねない社会にはどうのような信条が存在するのであろうか? 街角で語られる日常会話ではあってないような無力かつ権力だけをかざしている政治、経済への不安、そのような不安定な社会で人々はどうようにして心に安らぎを得ているのだろうか
私の知人のほとんどが無宗教である 何を信条としているのか… 特に気にしないまま日常を生きている 目の前に出てくるものは媒体と使われる『お金』であり、『あれが買いたいから貯めているんだ』『こっちの方がお買い得だから』と物欲に囚われ、根本となるものに関しては特に関心がない。まるで資本主義がひとつの宗教であるかのように、しかし資本主義には『生』たる『道徳』などない。
『善悪』の区別は『社会』の秩序で守られているかのように… しかしその『社会の秩序』自体に確固たる『善悪』の区別はされているのだろうか。
そこにはカリスマ性などなく人々の心奥底に強く刻み込むものなどあるのだろうか
己の心の奥底にある信条が『金があればなんでもできる』というものもいるであろう。そのように信じるのは個々の自由であるし、自分でそう思っているならばその世界で物事が進んでいるのであろう。
私 個人の見解からすると資本主義は確かに大きな影響力があるが、それに囚われるべきものではなく、揺るがれることのない自己の確立、信頼、熱望、希望、信条が個人を形成するものであって、お金などあとからついてくる 必要なものだけでそれ以上を無理に追い求めない よって私は凡人なのであるかもしれない ただかつて貪欲にお金を稼ぐことをメインに活動を行っていた時期があったが、それへの代償は決して喜ばしいものではなかった
資本主義は何年も何百年もずっとずっと続くことであろう。そのなかでいかにバランスのとれた精神の確立が追い求められていくであろう
もちろん、選択の自由であるから、無宗教もその一つであって、私自身もカソリックといいながら幼い頃から教会には行っていないで、自分の犯した心の罪を神父に告ることなどしていない。
部屋の壁に十字架をおき、毎晩語りかけるものであって教会に行って寄付などしたことは皆無である。どこか特定の宗派にそれ以上関与するわけでもなく、個人の自由として、神は私の心の中に存在するものと信じ自己を保っている。情報社会の中、どれが正しいものか分別も自分を持てる観点から行っている。
この資本主義にどっぷり浸かって物事の分別さえも左右されかねない社会にはどうのような信条が存在するのであろうか? 街角で語られる日常会話ではあってないような無力かつ権力だけをかざしている政治、経済への不安、そのような不安定な社会で人々はどうようにして心に安らぎを得ているのだろうか
私の知人のほとんどが無宗教である 何を信条としているのか… 特に気にしないまま日常を生きている 目の前に出てくるものは媒体と使われる『お金』であり、『あれが買いたいから貯めているんだ』『こっちの方がお買い得だから』と物欲に囚われ、根本となるものに関しては特に関心がない。まるで資本主義がひとつの宗教であるかのように、しかし資本主義には『生』たる『道徳』などない。
『善悪』の区別は『社会』の秩序で守られているかのように… しかしその『社会の秩序』自体に確固たる『善悪』の区別はされているのだろうか。
そこにはカリスマ性などなく人々の心奥底に強く刻み込むものなどあるのだろうか
己の心の奥底にある信条が『金があればなんでもできる』というものもいるであろう。そのように信じるのは個々の自由であるし、自分でそう思っているならばその世界で物事が進んでいるのであろう。
私 個人の見解からすると資本主義は確かに大きな影響力があるが、それに囚われるべきものではなく、揺るがれることのない自己の確立、信頼、熱望、希望、信条が個人を形成するものであって、お金などあとからついてくる 必要なものだけでそれ以上を無理に追い求めない よって私は凡人なのであるかもしれない ただかつて貪欲にお金を稼ぐことをメインに活動を行っていた時期があったが、それへの代償は決して喜ばしいものではなかった
資本主義は何年も何百年もずっとずっと続くことであろう。そのなかでいかにバランスのとれた精神の確立が追い求められていくであろう