KOOKOO's SHADOW - Am I hiding in the shadow? Or are we all hiding in the shadows? -18ページ目

KOOKOO's SHADOW - Am I hiding in the shadow? Or are we all hiding in the shadows?

HAVE I JUDGED A BOOK BY HOW IT'S BOUND?
AM I LOST OR AM I FOUND?
ARE YOU WITH ME?

過去に罪を犯したならば、あなたの過去は、すでにあなたでないと考えるのです。


そして、新たなあなたに願望を刻み込んで生きれば良いのです。


憎しみ、嫉み、恨み、妬み という憎悪は心の毒であり、持ち続けると、心理的牢獄の囚われの身になってしまいます。

その牢獄の扉は、他者によって開かれるのではなく、自分で 扉を解放するしかありません。



相手をどうするかではなく、自分の心をどうするかです。
大変ショックな事が起こり、そこから立ち直ることは困難なことですが、それもまた人生の糧にすることが大切です。


どんなことであっても、自身に起こることは、 苦しくても悲しくても、それが必然である事象なのです。


愛と怒り、愛と嫉妬は共存できないものです。



怒りと嫉妬を持続すれば、それだけ再生への時期が遠く なります。




神 にお任せしましょう。

神に祈り、神に全てを預けましょう。

そうすれば気持も安らぎ、平穏な日々を送ることができます。

全ての事柄は、因果の法則によって起きます。

現在の自分自身は、過去の自分の因果律によっています。


だからといって、過去の出来事で、現在の幸福を脅かす必要はありません。


現在の自分は、過去の自分ではないからです。

不安とは、心に浮かぶ幻影です。


相手に愛されているかどうかを悩み、心の病気にかかる人はたくさんいます。


このような人は、自分から種を蒔いて、水やりをし、不安を育てているにすぎません。

落ち込むほど、事態は悪化の方向へと向かいます。



ですから、何事にも自信を持って堂々と対応し、不安を自信に変えて生きましょ う。


それによって、失いそうになった愛も甦ります。
真の愛とは、どのようなものか 真なる故、シンプルかつ奥の深いものであり、信じることの貫きをも意味するとつくづく思います。


人を愛する ということは、相手の全てを受け入れ慈しむことです。


欠点をも愛するのです。


「愛は一つ」を知れば、苦しみも喜びに変わり、真の愛に生きられ、人 生は豊かになります。


互いに愛し合っていれば、他の異性に心を動かすはずはありません。


他の異性をいつも追いかけている人は、怒りや欲求不満に支配されているのです。


賢明な人は、どんな場合でも相手の愛を確信し、その確信は揺らぐことがありません。

愚かな人は、ちょっとした言動に不満を抱き、衝動的な行動に走ります。


このような状態から脱出するには、それまでの習慣を改めることです。


習慣ほど潜在意識に影響を与えるものはなく、もし不安を飲酒や衝動買いなどで解消しているならば、その悪い習慣を改めるべきです。

愛されることに不安を持つ時間があったら、スポーツをして身体を鍛えたり、学問や習い事をしたりして気晴らしを することです。

そして、自分自身が相手に対して何ができるか考えるのです。

相手が喜ぶことをするのです。

心の中から不安を追い出したとき、「愛は一つ」に 気づきます。


愛の最大の敵は、不安(恐れ)です。


いつも愛する対象から捨てられるのではという不安と恐れで生きれば、それが現実のものとなります。

また、 恐れを持ち続ければ愛は去っていきます…。
「無私の愛」は、愛の神髄です。

自分を無にして、他者を愛することは、言うに易く、行うに難いものです。

なぜなら、人間とは、非常に易きに流れがちな もので、様々な煩悩に悩まされる生き物だからです。


しかし、いつも真摯な祈り捧げることのできる人は、「無私の愛」に到達でき、愛されるよりも愛する、幸福であるという本物の愛の形を感じとることができるのです。
人生において、愛することの尊さ、豊かさを知る人は限りなく幸せです。


また真実の愛によって結ばれていれば、神は味方についてくれます。


そこには調和と理解 が存在します。


それが原点です。



たとえ、相手が否定的な形で対応してきたとしても、その相手の心の中に存在していると理解すれば、愛は強くなります。

その人にはいつも、神の愛、調和、理解、法の秩序が存在するのだと、生き生きと感じることが、「愛の強さ」です。
聖書には、「あなたの信じた通りになるように。信じた者には、どんな事でもできる」と記されています。

神が癒してくれる力を信じる事が、恐怖、疑惑、苦労などを乗り越える最良の手段であることを覚えていて下さい。


嫉妬は、不安があるから起こり、それは苦しみを生み、愛を不毛なものへと誘い込みます。


「真の愛」はまた、独占欲や欺瞞とも無縁であり、相手を解放して、ひたすら与え続けます。

「私を愛しているなら、これをしてくれて当然」という考えは愚かです。

自分がそうして欲しいからといって、相手に期待し、要求を突きつ けるのは間違っています。


心からの愛は、不安感、劣等感、恐怖心をも追い払います。


愛と善意を相手に与えれば、それは倍加して返ってきます。


愛を求めず に、ただ与えるのです。

そうすれば、まとわりついた不安や恐怖といった否定的な感情はなくなり、満たされた「真の愛」が訪れてきます。
何かを失うたびに自責の念に苛まされたり、弄ばされた と怒りと哀しみの渦の中へ引き込まれてしまう 

そういった目先の感情だけではなく、何を意味するものなのか、吟味を重ね、今も常に心がけている 

容易なたぐいではないが、それは「解放」へも導かせてくれる


「真の愛」とは、相手に代償を求めるといった「見せかけの愛」ではなく、限りない寛容の心を持って愛を注ぐだけです。

愛されるのが幸せではなく、愛することこそ幸せなのです。


「真の愛」とは、受け身で愛されることだけを望んでいてはいけません。

自分の方から積極的に愛をあふれ出させるのです。


「真の愛」に嫉妬は無縁です。

「真の愛」には嫉妬の入り込む余地がありません。

嫉妬とは、「まなじりを緑の炎に燃え上がらせた怪獣」なのです。
昨年、振り返ることがよくあった 吟味を重ね 信条をより具体的な言葉へ表し続けた


「真の愛」とは、「自分を愛する」行為から始まります。

よく自己愛が利己主義や自己顕示などと混同されがちですが、利己主義や自己顕示は、ただのわがままであり、病的な自己愛にすぎず、それらは自己破滅を招くだけです。

「自己を愛する」とは、自己を肯定することです。

自己を肯定するには、心が平安であることが 求められます。


自分の心が乱れている時には、否定的な感情が揺れ動くため「自分を愛する」ことはできません。

「自分はダメな人間だ」とか、「何をしても失 敗ばかりだ」と自己を否定してしまっています。

自分を好きになれない自分を、どうして他人が愛することができるでしょうか。


否定的な感情を抱いた自分を許し、人の幸せを心から祈り、怒りを抱いている人々の全てを許します。

心が満ちていれば、たとえ憎むべき相手であっても、怒りや敵意などの否定的な感情が入り込む隙はできません。


「私の心はいつも平穏です」そう祈るのです。


この祈りが心の奥底にまで浸透したとき、本当に「自分を愛する」姿に変貌を遂げます。



天にまします我らの神よ、こみあげるこの祈りを叶えたまえ


そして、憐れんで下さい。絶えることなくあなたを呼ぶこの俺を

昨年心に感じ取るものが生まれた

思い出しては心に刻み込む


抱いている願望、夢、計画などについても、また現在の段階ではまだ実現の可能性がいくら小さいと思えても、いずれ必ず実現するのだと明確に心に定着させれば、それが信念となり、混乱や動揺から守ってくれます。

幸運、不運は自分がおのずと作り出しているものであり、自分が蒔いたものは、自分で刈り取ることになっています。

貧しい種を蒔けば、不運が待ち受け、幸せの種を蒔けば幸せになります。

日常生活で発生する全ての事象に感謝の心を持つ事が幸福を選択する第一歩になります。

その感謝の心は、自然と一体感を得られ、かつ、その心を持ち続ければ、人生は豊かになり、常に幸せを感じることとなります。

不幸な選択をして、心が悩み、苦しみに落ち込む時、しなければならない事は、周囲に集まってくる人間関係を変えるよう努めること並びに好ましい心的状態に変えてくれる人間関係へと積極的にそして意図的に変えるよう努めることが大切です。

類は類を呼びますから、不幸をかこつ人の間の輪には不幸の連鎖があるだけです。

そこから脱出できなければ、いつまで経っても幸福の灯火は見えてきません。

心豊かな世界へと導いてくれる人と付き合うという事はとても大切です。

祈りましょう。

目を閉じて、心身ともにリラックスさせ心をすっかり解放させ自由を得るのです。

理想とする好ましい異性をしっかり引きつけることができると確信し、それがしっかりと定着したときに現実のものとして現れるのです。

願いを言葉に出して語りかけましょう。

少しでも疑問が入り込んだら、心の中へ刻印できなくなります。

本気で祈り、その祈りによって得られると確信する事です。これを毎日繰り返しているうちに、運命的なものとなって出現するのです