イザヤ44:6-8
イスラエルの王である主

イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる

私は初めであり、終わりである。
 私をおいて神はない

誰か、私に並ぶ者がいるなら
声をあげ、発言し、私と競ってみよ。
私がとこしえの民としるしを定めた日から

来たるべきことにいたるまでを告げてみよ。


恐れるな。

既に私はあなたに聞かせ

告げてきたではないか。

あなたたちはわたしの証人ではないか。
私をおいて神があろうか、岩があろうか。

私はそれを知らない。


夫と私は性格、興味、関心、特技、何もかもが正反対なので夫のことが理解できないことがたくさんあります。唯一、一緒なのが二人ともクリスチャンだということ。もし、クリスチャンじゃなかったら、性格の不一致とかいう理由で別れていたかもしれません。お互い自分が正しいと思っているので自分の基準で相手を判断してしまいます。私のような小さな女王様に夫がよく耐えてくれていることを尊敬してしまいます。二人とも大阪生まれ、育ちなので二人で違いをネタにして漫才みたいにやって来られたのも恵みです。こんな正反対のものが一緒に生きられるのはなんでだろう
ヨハネの黙示録22:11


不正を行う者は、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。


人には神の怒りを感じる心が与えられています。周りが不正を行ったり、汚れたことしていると怒りを感じています。それは神の国に相応しいものとなるために必要な怒りです。神の怒りとは道徳的な正義を越えて私たちを真の正義に導きます。神の怒りは弱くされたものの一見不合理で非常識な行動で現れることが多いのです。私たちは暴力など不義な行動を受けると、復讐したくなります。しかし、その不合理な不義に満ちた行動を直視するとき、神の怒りを聞くことができます。それを聞かずに人間的な解決、合法的であれ、そうでなくとも、復讐という手段に走りがちです。しかし、それらには限界があります。復讐に復讐を重ねても心に平和は来ません。復讐は神さまの仕事なのです。神の怒りを聞き、神と心を合わせて与えられた道を歩むとき、たとえ恐怖の中に身を委ねることになっても、人知を越えた平和が与えられます。神に求めず、神の怒りを人の怒りとし、身を委ねて、復讐したり、不義を行い、汚れたことを平気で行っていくなら、最終的に神のなさることの方が、人のする復讐よりも恐ろしいのです。神は優しく、憐れみぶかい方であると同時に畏れるべき方だからです。神を愛する以上に神を畏れる心をもちたいと思います。
ルカ2:11-14 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。あなたがたは布でくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。

すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美していった。


いと高きところには神に栄光、地には御心に適う人にあれ



クリスマス、おめでとうございます。イエスさまの誕生物語を心に浮かべていきました。その後、マリアさんに抱かれたイエスさまの姿が心に浮かんで離れませんでした。私は抱かれた小さな幼いかわいいイエスさまに目が行きました。


通常、イエスさまといえば成人の男性を思いうかべます。しかし、イエスさまは人生のときに応じてさまざまな姿をお見せになります。

イエスさまは何もできない、単にかわいいだけの存在としてこの世に来られました。大仏のように人がその掌の中で包まれるような神と人とのイメージとは異なります。不完全な人の愛に包まれる完全な神という逆のイメージなのです。


神さまは厳しく恐ろしい方というより、優しくかわいい存在としてこの世にこられました。


私のような小さく弱い人には厳しく恐ろしい神さまには戦いて着いていけません。怖がりでおどおどしている私には、放蕩息子のようなドラマチックな改心劇、たとえば、貧しいところから自分の力で生きてぶつかってキリストに出会うような劇的な生き方は強烈すぎてできません。神さまは、私のような人間がこの世で生きられるように、行く先ざきで乗り越えられないような困難を先回りして除けてくださっただけでなく、お嬢様が歩けるように赤い絨毯までひいてくださいました。そしていつも優しく諭しながら手取り足取り導いてくださいます。本当に私は神さまにとって手のかかるお嬢様で困ったものです。

クリスマスは、神さまが人となられてこの世に来られました。どんなイエスさまにこれまで導いていただいたかひとりひとり異なります。人は自分の人生の中に人の人生の中に様々なイエスさまを見ることができます。

どんなイエスさまであれ、自分を慈しんで大事に思ってくださる思いに感謝せずにはおれません。