知覧・武家屋敷群(鹿児島県)(史跡名勝天然記念物・重要伝統的建造物群保存地区)

知覧町は鹿児島県薩摩半島の南部中央に存在した町で、現在は南九州市知覧町郡に属し「薩摩の小京都」と呼ばれています。
「武家屋敷通り」と呼ばれる侍町の通りには薩摩藩が建てた武家屋敷が多数あり、その一帯を庭園化し美しい町並みを残しています。

1981年、庭園のうち7つが「知覧武家屋敷庭園」(知覧麓庭園)として、国の名勝(史跡名勝天然記念物)に指定されました。
また同年「武家屋敷群」(武家屋敷通りの周囲)が「国の重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。


知覧城(国の史跡)

平安時代末期に郡司・知覧忠信が構えた城の跡地で、火災のために現在は当時の建造物は全く残っていませんが、国の史跡に指定されています。
シラス台地を利用した城郭になっていて、台地をぶつ切りにしたような大きな侵食谷を空掘として利用していました。


知覧城


知覧飛行場

1941年、知覧町内に陸軍知覧飛行場が作られました。その後太平洋戦争(大東亜戦争)末期の沖縄戦でこの飛行場は本土最南端の特別攻撃隊の出撃地となり、多くの兵士がここから出撃し海に散って逝きました。


零式戦闘機5丙型


知覧特攻平和会館(財団法人)

太平洋戦争に使用された戦闘機や、陸軍沖縄戦で戦死した全1,036名の陸軍特別特攻撃隊員の遺影や遺書・手紙などの遺品が展示されている会館です。
平和会館に通ずる道には慰霊のための灯篭が建立されています。(2006年現在1,082基)

展示された隊員たちの遺品の大部分は、初代会館館長であり元特攻隊員でもある、板津忠正氏によって収集されたものです。


特攻像「ことしえに」


板津忠正(1925年~)初代知覧特攻平和会館館長

1945年、板津忠正は陸軍特別攻撃隊員となり同年5月28日に沖縄作戦に出撃しましたが、途中エンジントラブルにより徳之島海岸に不時着し、知覧に帰還しました。
その後2回の出撃命令が出ますが、何れも雨のため中止となり終戦を迎えました。
忠正は生き残って帰ってきた申し訳なさから、皆に謝りたいとの思いで自分の隊の遺族たちを探し歩きました。

やり切れない日々の中幾度となく眠れぬ夜を過ごしましたが、次第に「自分に命が永らえたのは自分にしかできない何かがあるからだ」と考えるようになりました。そこで忠正は生まれ故郷である名古屋の市役所で勤める傍、特攻で亡くなった仲間の遺族や親類等の元へ慰霊とともに当時の状況を説明して廻り、遺品の収集をし始めました。

そして1995年、50年かけて特攻慰霊、資料収集で全国を行脚し、全戦死者(1,036名)の遺影を集めました。

「陸軍特別攻撃隊」…彼等の犠牲の元に、今の日本は成り立っています。(勿論彼等だけではありませんが)


「靖国で会おう」

が、皆の合言葉でした。