ほどなく、女性の神主さんがお越しになり、本殿へ案内された。
その前に手を水で清め、白い装束を上から羽織る。
なかなか本格的だ。
本殿の中へ入ると、中は奥行きがあり、とても静かで音がよく響くような気がした。
祝詞がはじまると、交通安全、引越し、厄除などの祈祷のあと、
私の縁結びの祈祷の番が回ってきた。
名前を言われるから少し恥ずかしい気持ちになったが、
だれも私だとは思わない(だろう)し、思われてもいいや、どうせ知らない人だし、
人の目を気にしないってきめたじゃないか!!と余計なことを考えながら祈りを捧げた。
「これまでご挨拶に来ずに大変失礼いたしました。いつも見守ってくださって本当にありがとうございます。これからもどうぞお見守りください。しょっちゅうは来られないですが、折を見てまたお参りに来ます。
本日はお祈りに参りました。私は愛し愛されお互いを大切にしあえる素敵な人と結婚します、ご縁をつないでください。そして、これからの人生で素敵な人々と必ず出会います、ご縁を結んでください。」
愛すべき産土の神様との再会を喜び、心の中で祈りをつぶやきながら、
とても清々しい気持ちになった。
ああ、やっぱり産土の神様って、なんか度量が大きいな。
全てを包み込んでくれているような、許してくれているような、
認めてくれているような、愛してくれているような、、、
そんな気持ちになった。
祈祷が終わり、1人だけ大きな紙袋を渡され、お宮を後にした。
中にはお札やお守り、お酒やお水や砂など様々なものが入っていた。
なんだか盛りだくさん。
お守りはいつも持ち歩ける。いつでも持ち歩こう。
こうして、本殿を後にして、元来た参道を歩きながら考えた。
神社に参るということ。
これは自分と向き合うということなのかもしれない。
神は自分の中に在る、ということを言う人がいる。
私は何となくその意味がわかるような気がする。
私が生きている世界は、私の目を通して見えている、体験している世界だ。
私の見る目を変えられれば、その世界は輝きを放つし、
私の見る目が曇れば、その世界はモノトーンの味気ないものになる。
例えば恋をしたとき、幸せな時間を過ごしているときは、
なんだか全てのものに優しい気持ちになる。
一方、別れを告げられた直後、電車の中で周りにいる人たちは
みんな悩みを抱えてなさそうで、私は世界一不幸な人間であるような
絶望的な気持ちになる。
しかしどうだろうか、時間が経てば、あのときあの彼と別れてよかったな、
だから今の自分があるのだから、と思えるのだ。
だから、あの別れた日も私は世界一不幸だなんてことはなかった。
私が自分を世界一不幸だと決めて思い込んでいただけだ。
自分の人生観が変わり、世界は自分次第で変わるということが
ようやく腑に落ちてからというもの、
どんな辛いことがあっても、
大切な兄がこの世を去った二年前のあのときも、
悲しみに暮れることがあっても、
私はいつでも、必ず上向きになる、今日がその最初の日だ、と思って生きてきた。
だから、たまに泣くことがあっても、この先の人生への希望をいつも胸に生きてこれた。
もうすぐしたら、私は新しい人生を歩み出すだろう。
14年勤めた会社を辞め、この先の人生、情熱を持って仕事をする日々を
一年以内には現実にするだろう。
そんな思いを胸に抱えながら入り口の鳥居をくぐって神域を出た。
今回の産土神社参りに際して、様々なミラクルや、
なつかしい出会い、新たな気づきがあった。
こんな素敵な体験をさせてくださった産土の神様に心より感謝。
素晴らしい時間を過ごさせていただきありがとうございました。
改めて神社に向かってお辞儀をした。
駅に向かって歩き出した。
あのなつかしのパン屋で買った食パンの袋と
神社でいただいたお札の袋を両手にぶら下げながら。
太陽に照らされた、かつて歩いたであろう元荒川沿いの道を歩きながら
とても幸せな気持ちに浸っていた。