「アップルvsグーグル」 3つの論点とその先
常に革新的な製品・サービスを提供してくれるアップルとグーグル。書籍「アップルvsグーグル」(小川浩・林信行 ソフトバンク新書)には両者の状況がうまく整理されており、いくつかのおもしろい論点が書かれていました。
■クローズドなアップルvsオープンなグーグル
これは両者の思想の違いであり、相容れない考え方です。アップルの一社クローズドな状況とは、例えばハードを制御するOSに見ることができます。Mac用のMac OS XやiPhone/iPad用のiOSはアップルの製品にしか搭載されていません。アプリなどのソフトや電子書籍等のコンテンツも然りで、アップルはこれらを自社のiTunesやApp Storeでしかユーザーは手に入れることはできません。
一方のグーグル。同じOSでもグーグルのアンドロイドは他社にも解放しています。だからスマートフォンの1つであるアンドロイド携帯と言っても、様々なメーカーがつくっておりグーグルはアップルのように管理する姿勢は見られません。
iPhoneやiPadが売れれば売れるほど、その売上はアップルに入ってきますが、アンドロイド携帯はそうではありません。アンドロイド携帯の売上はそれをつくったメーカーのもので、グーグルは直接売上を手にするわけではないのです。
これはグーグルが掲げるミッションに由来しています。彼らは次のような使命をかかげています。
Google's mission is to organize the world's information and make it universally accessible and useful. (Googleの使命は、世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすることである)
つまり、グーグルの考え方はアンドロイドも含めてグーグルの諸サービスを一人でも多くの人に使ってもらい、そうすれば「世界中の情報整理」に少しでも近づけるというものです。故に、極論を言ってしまえば、このミッションのためにはアンドロイド携帯の売上よりもアンドロイドが広く使われることが彼らにとっては重要なのだと思います。そういう意味では、グーグルというのは、そのミッションに実に忠実に運営されている組織なのです。
■アップルは道具vsグーグルは素材
アップルとはどのような企業なのでしょうか。一言で表現するのは難しいですが、特徴は人々に驚きを与える製品をつくっていることだと思います。特に最近の動きを見ていると、ユーザーの予想を超えるものを次々に打ち出している印象があります。具体的には、iPadの発売後すぐにiPhone4が、また先日9月1日(現地時間)に新しいiPodとiTunes10への音楽SNS機能追加、そしてApple TVなどです。もう少し言うと、アップルの製品は洗練されたソフトと美しいデザインを有し、個人が手で実際に直接手で触れて、時には持ち歩くこともできます。
このように道具をつくるのがアップルだとすると、グーグルがつくるのは素材であると本書では表現しています。あらためて考えてみると、グーグルが提供してきたサービスはどれも私たちが直接手で触れることができるものではなく、身体性を伴わない情報ばかりです。グーグルの検索サービス、グーグルドキュメント、グーグルマップなど、私たちに情報という素材を提供してくれるものです。
前述のグーグルのミッションを考えると彼らのやるべきことは、(1)誰もが使ってくれる技術を生み出すこと、(2)それを誰でも使えるように提供すること(オープンに配信)、の2つではないでしょうか。
■アップルのゴミをつくらない戦略vsグーグルの数打てば当たる戦略
アップルの戦略はとても美しく、ワクワクさせてくれるものだと思っています。なぜなら、自分たちの戦略が最大限に効果を発揮するセグメントを見つけ、そこに彼らの叡智であり技術を集中させるからです。また、彼らの製品にはアップル(というかジョブズ)自身が満足し、自身を持っている製品だけを提供していると思います。
それではグーグルはどうでしょうか。彼らのやり方は、その時点では世の中にはなかったりおもしろいと思ったものをとりあえず試して、その中で目途が立ちそうなものを事業として形成していくと考えられます。例えば、グーグルストリートビューは、あれば便利ですが実際に道路に専用の車を走らせて映像を撮るという発想は、グーグルにしかできないことだと思っています。グーグルブックも同様で、世界中の書籍をスキャンし電子化するということは、考えただけでも途方もないことのように感じます。しかし、それを実際に実行に移しているのがグーグルなのです。話をグーグルの戦略に戻すと、彼らのやり方はある程度は流れに任せて進化させており、民主的な方法だとも言えそうです。
■グーグルの使命を阻むもの
今回取り上げている書籍「アップルvsグーグル」では、グーグルのミッションを妨げているものは大きく3つある(あった)としています。(1)企業のイントラネット、(2)モバイルインターネット、(3)クローズドなメガSNS。
(1)企業イントラネットについては、最近では日本企業でもグーグルのGmailを業務用に使って
いたり表計算ソフトやワープロソフトを導入する事例を聞くようになりました。また、(2)モバイルインターネットは、iPhoneという強力な壁があるもののアンドロイド携帯で巻き返しを図ろうとしています。
では、(3)クローズドなメガSNSはどうでしょうか。個人的には、この領域はグーグルにとって頭の痛いものであるように思います。具体的にはFacebookやTwitterであり、日本ではmixiやモバゲー、GREEなどのソーシャルゲームのSNSも含まれます。
フェースブックがクローズドな点やツイッターも含め、ユーザーは情報をリアルタイムで共有しかつ次々に伝搬していきます。最近になって、グーグルはリアルタイム検索をリリースしましたが、それでもまだグーグルはこれらの中の情報を整理しきれていない印象があります。例えば、フェースブックのLikeボタン(いいね!ボタン)などの情報です。
■今後はどうなるのか
一方でアップルについてこれらメガSNSとの関連を見てみると、アップルと彼らの相性はいいように思います。というのは、アップルはツイッターやフェースブックのアプリを配信しており、iPhoneというモバイルとSNSやツイッターは連携がとれており、とても使いやすい道具だと感じるからです。
個人的に思うのは、アップルとグーグルというのはある領域によっては対決の構図があるものの、一方で、相互に依存していることです。グーグルにとって、アップルのiPhoneが売れるほど他の競合であるメーカーがアンドロイド携帯の開発を加速させてくれます。またアップルにとっては、iPhoneにグーグル検索やグーグルマップが使われていることを考えると、どこか協力体制も築いているとも見えます。(もちろんネットTVなど、新しい対決も発生するでしょうが)
しばらくは、アップルとグーグルだけの対決ではなく、そこにフェースブックやツイッター、Foursquare(フォースクエア)などの位置情報サービス、Groupon(グルーポン)などのクーポン系サービスといった、新しいソーシャル系サービスが複雑に絡む状態が続くような気がしています。結末はどうなるかは予想がつかないですし、そんな時代に生きることは幸運であり、そのプロセスを体験できることにワクワク感があります。
■クローズドなアップルvsオープンなグーグル
これは両者の思想の違いであり、相容れない考え方です。アップルの一社クローズドな状況とは、例えばハードを制御するOSに見ることができます。Mac用のMac OS XやiPhone/iPad用のiOSはアップルの製品にしか搭載されていません。アプリなどのソフトや電子書籍等のコンテンツも然りで、アップルはこれらを自社のiTunesやApp Storeでしかユーザーは手に入れることはできません。
一方のグーグル。同じOSでもグーグルのアンドロイドは他社にも解放しています。だからスマートフォンの1つであるアンドロイド携帯と言っても、様々なメーカーがつくっておりグーグルはアップルのように管理する姿勢は見られません。
iPhoneやiPadが売れれば売れるほど、その売上はアップルに入ってきますが、アンドロイド携帯はそうではありません。アンドロイド携帯の売上はそれをつくったメーカーのもので、グーグルは直接売上を手にするわけではないのです。
これはグーグルが掲げるミッションに由来しています。彼らは次のような使命をかかげています。
Google's mission is to organize the world's information and make it universally accessible and useful. (Googleの使命は、世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすることである)
つまり、グーグルの考え方はアンドロイドも含めてグーグルの諸サービスを一人でも多くの人に使ってもらい、そうすれば「世界中の情報整理」に少しでも近づけるというものです。故に、極論を言ってしまえば、このミッションのためにはアンドロイド携帯の売上よりもアンドロイドが広く使われることが彼らにとっては重要なのだと思います。そういう意味では、グーグルというのは、そのミッションに実に忠実に運営されている組織なのです。
■アップルは道具vsグーグルは素材
アップルとはどのような企業なのでしょうか。一言で表現するのは難しいですが、特徴は人々に驚きを与える製品をつくっていることだと思います。特に最近の動きを見ていると、ユーザーの予想を超えるものを次々に打ち出している印象があります。具体的には、iPadの発売後すぐにiPhone4が、また先日9月1日(現地時間)に新しいiPodとiTunes10への音楽SNS機能追加、そしてApple TVなどです。もう少し言うと、アップルの製品は洗練されたソフトと美しいデザインを有し、個人が手で実際に直接手で触れて、時には持ち歩くこともできます。
このように道具をつくるのがアップルだとすると、グーグルがつくるのは素材であると本書では表現しています。あらためて考えてみると、グーグルが提供してきたサービスはどれも私たちが直接手で触れることができるものではなく、身体性を伴わない情報ばかりです。グーグルの検索サービス、グーグルドキュメント、グーグルマップなど、私たちに情報という素材を提供してくれるものです。
前述のグーグルのミッションを考えると彼らのやるべきことは、(1)誰もが使ってくれる技術を生み出すこと、(2)それを誰でも使えるように提供すること(オープンに配信)、の2つではないでしょうか。
■アップルのゴミをつくらない戦略vsグーグルの数打てば当たる戦略
アップルの戦略はとても美しく、ワクワクさせてくれるものだと思っています。なぜなら、自分たちの戦略が最大限に効果を発揮するセグメントを見つけ、そこに彼らの叡智であり技術を集中させるからです。また、彼らの製品にはアップル(というかジョブズ)自身が満足し、自身を持っている製品だけを提供していると思います。
それではグーグルはどうでしょうか。彼らのやり方は、その時点では世の中にはなかったりおもしろいと思ったものをとりあえず試して、その中で目途が立ちそうなものを事業として形成していくと考えられます。例えば、グーグルストリートビューは、あれば便利ですが実際に道路に専用の車を走らせて映像を撮るという発想は、グーグルにしかできないことだと思っています。グーグルブックも同様で、世界中の書籍をスキャンし電子化するということは、考えただけでも途方もないことのように感じます。しかし、それを実際に実行に移しているのがグーグルなのです。話をグーグルの戦略に戻すと、彼らのやり方はある程度は流れに任せて進化させており、民主的な方法だとも言えそうです。
■グーグルの使命を阻むもの
今回取り上げている書籍「アップルvsグーグル」では、グーグルのミッションを妨げているものは大きく3つある(あった)としています。(1)企業のイントラネット、(2)モバイルインターネット、(3)クローズドなメガSNS。
(1)企業イントラネットについては、最近では日本企業でもグーグルのGmailを業務用に使って
いたり表計算ソフトやワープロソフトを導入する事例を聞くようになりました。また、(2)モバイルインターネットは、iPhoneという強力な壁があるもののアンドロイド携帯で巻き返しを図ろうとしています。
では、(3)クローズドなメガSNSはどうでしょうか。個人的には、この領域はグーグルにとって頭の痛いものであるように思います。具体的にはFacebookやTwitterであり、日本ではmixiやモバゲー、GREEなどのソーシャルゲームのSNSも含まれます。
フェースブックがクローズドな点やツイッターも含め、ユーザーは情報をリアルタイムで共有しかつ次々に伝搬していきます。最近になって、グーグルはリアルタイム検索をリリースしましたが、それでもまだグーグルはこれらの中の情報を整理しきれていない印象があります。例えば、フェースブックのLikeボタン(いいね!ボタン)などの情報です。
■今後はどうなるのか
一方でアップルについてこれらメガSNSとの関連を見てみると、アップルと彼らの相性はいいように思います。というのは、アップルはツイッターやフェースブックのアプリを配信しており、iPhoneというモバイルとSNSやツイッターは連携がとれており、とても使いやすい道具だと感じるからです。
個人的に思うのは、アップルとグーグルというのはある領域によっては対決の構図があるものの、一方で、相互に依存していることです。グーグルにとって、アップルのiPhoneが売れるほど他の競合であるメーカーがアンドロイド携帯の開発を加速させてくれます。またアップルにとっては、iPhoneにグーグル検索やグーグルマップが使われていることを考えると、どこか協力体制も築いているとも見えます。(もちろんネットTVなど、新しい対決も発生するでしょうが)
しばらくは、アップルとグーグルだけの対決ではなく、そこにフェースブックやツイッター、Foursquare(フォースクエア)などの位置情報サービス、Groupon(グルーポン)などのクーポン系サービスといった、新しいソーシャル系サービスが複雑に絡む状態が続くような気がしています。結末はどうなるかは予想がつかないですし、そんな時代に生きることは幸運であり、そのプロセスを体験できることにワクワク感があります。
アップルvs.グーグル (ソフトバンク新書)
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小川 浩 林 信行
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「性」による「生」のための「死」
書籍「ヒトはどうして死ぬのか -死の遺伝子の謎-」(田沼靖一 幻冬舎新書)には、次のような言葉が書いてありました。「性」による「生」の連続性を担保するためには「死」が必要である(p.147)
この本はアポトーシスという細胞の死亡プログラムの説明に始まり、「人はなぜ死ぬのか」という問いを生物学的に、そして哲学的に考察されていました。予想以上におもしろかったです。
■「性」による「生」
有性生物は、父親と母親から一組ずつの遺伝子をそれぞれ受け継ぎます。よって、子の遺伝子は父親のそれとも母親のそれとも異なる新しい遺伝子の組み合わせとなります。このメカニズムは別の見方をすると、「性」によって遺伝子のシャッフルが行われていると捉えることもできます。
このような有性生殖によって、子孫が新しい遺伝子組成を持つことのメリットはどのようなものでしょうか。それは多様性です。つまり、子孫の多様性により、ある子孫は環境の変化に適応でき、また、ウイルス等の外敵に対する抵抗力を持つことを意味します。これが、私たち人間を含む有性生物の「『性』による『生』の連続性を担保する」という戦略ではないでしょうか。
■「性」による「生」のための「死」
では、「生」のための「死」とはどういうことでしょうか。生きるために死ぬと言われると、一見すると矛盾しているようにも聞こえますが、書籍「ヒトはどうして死ぬのか」を読むとその意味がわかります。ここで言う「死」とは、細胞の死を指していて、「生」のための「死」が意味するのは、人間が生きるためには時として細胞は自ら「死」を選んでいるというものです。
今回取り上げている書籍「ヒトはどうして死ぬのか」によれば、我々の細胞の死は3つのパターンがあると説明されています。3つとは、アポトーシス、アポビオーシス、ネクローシス。簡単にまとめると下表のようになります(表1)。

このうち、アポトーシスとアポビオーシスは、遺伝子に支配された細胞の死としています。そして、「生」のための「死」を考える上では、アポトーシスがポイントとなります。またアポトーシスは本書のキーワードでもあります。
アポトーシスとは、細胞の自殺であると著者は言います。ではなぜ細胞は自ら死の道を選択するのでしょうか。本書では、アポトーシスには「生体制御」と「生体防御」という2つの役割があるとされています。生体制御とは、個体(例えば人間)の完全性を保つ役割です。どういうことかと言うと、もし細胞が無限に増殖すれば私たちの身体は無限に大きくなりますが、そうならないのは個々の細胞が個体全体を認識し不要な細胞が自ら死ぬことで、人間としての個体を保っているのです。もう1つの役割である生体防御では、例えばウイルスやガン細胞などの内外の敵が現れた場合、敵による異常をきたした細胞がアポトーシスによりその細胞を消去することで、個体全体を守る機能を果たしています。
ちなみに、私たち人間の成人の身体は約60兆個の細胞でできているそうです。うち、1日で死ぬ細胞数は3000億~4000億個ほどで、重さにして約200gとのことです。これにより、老化した細胞や発ガン性物質により異常となった細胞が消去されます。こうして私たちの身体では日々新しい細胞へと入れ替わっており生きているのです。つまり、人間の「生」のための細胞の「死」なのです。
■ヒトはどうして死ぬのか
ここまで、「死」を細胞のレベル、とりわけアポトーシスという細胞自らの死を見てきました。そこで、今度は「死を人としての死」を考えてみます。「ヒトはどうして死ぬのか」という本の特徴は、なぜ人は死ぬのかについて生物学的な側面と哲学的な側面の両方から書かれている点だと思います。
本書によると、動物の最大寿命と細胞上限分裂の回数は比例していると言い、それによると人間の最大寿命は120歳のようです。もちろんこれは理論上の数字であり、実際には紫外線・化学物質や暴飲暴食・ストレスなどの様々な後天的な環境・生活要因で、人間は最大寿命まで生きることができないのが現実です。
本書を読んで考えさせられたのは、「人はなぜ死ぬか」という命題についての哲学的考察でした。細胞のアポトーシスについてあらためて考えてみると、アポトーシスとは、ある細胞が自ら死を選択することで全体の細胞(例えば人間)が生きているという構図です。すなわち、個が利他的に振る舞うことで全体は利己的な存在でいられるのです。
では個を人間と捉えると、全体は何になるのでしょうか。それは人間の集合である人類と捉えることができると思います(なお、本書では全体を地球にしていますがこの記事の文脈上、全体を人類としました)。細胞はアポトーシスにより全体である人を生かしました。これと同じことが、人間と人類においても当てはまるのではないでしょうか。
■生きるとは何か
これは、自分の死生観とも言えることですが、生きることとは次の世代に何を残すかだと思っています。残すというのは、直接的には子孫を残すことであり、間接的には自分の経験や考え・意見、あるいは生き様を他人の心の中に残すことだと考えています。
子孫を残すことだけであれば、例えば産卵後すぐに死んでしまう鮭などと同様に生殖期間だけでその役割を果たすことができます。しかし、人間は生殖期を終えてもその後も何年も生きることができる動物です。この意味を考えたとき、前述の間接的な役割もまた大きいのではないでしょうか。これが、人間が社会の中で生きることの意味でもあるように思います。
この本はアポトーシスという細胞の死亡プログラムの説明に始まり、「人はなぜ死ぬのか」という問いを生物学的に、そして哲学的に考察されていました。予想以上におもしろかったです。
■「性」による「生」
有性生物は、父親と母親から一組ずつの遺伝子をそれぞれ受け継ぎます。よって、子の遺伝子は父親のそれとも母親のそれとも異なる新しい遺伝子の組み合わせとなります。このメカニズムは別の見方をすると、「性」によって遺伝子のシャッフルが行われていると捉えることもできます。
このような有性生殖によって、子孫が新しい遺伝子組成を持つことのメリットはどのようなものでしょうか。それは多様性です。つまり、子孫の多様性により、ある子孫は環境の変化に適応でき、また、ウイルス等の外敵に対する抵抗力を持つことを意味します。これが、私たち人間を含む有性生物の「『性』による『生』の連続性を担保する」という戦略ではないでしょうか。
■「性」による「生」のための「死」
では、「生」のための「死」とはどういうことでしょうか。生きるために死ぬと言われると、一見すると矛盾しているようにも聞こえますが、書籍「ヒトはどうして死ぬのか」を読むとその意味がわかります。ここで言う「死」とは、細胞の死を指していて、「生」のための「死」が意味するのは、人間が生きるためには時として細胞は自ら「死」を選んでいるというものです。
今回取り上げている書籍「ヒトはどうして死ぬのか」によれば、我々の細胞の死は3つのパターンがあると説明されています。3つとは、アポトーシス、アポビオーシス、ネクローシス。簡単にまとめると下表のようになります(表1)。

このうち、アポトーシスとアポビオーシスは、遺伝子に支配された細胞の死としています。そして、「生」のための「死」を考える上では、アポトーシスがポイントとなります。またアポトーシスは本書のキーワードでもあります。
アポトーシスとは、細胞の自殺であると著者は言います。ではなぜ細胞は自ら死の道を選択するのでしょうか。本書では、アポトーシスには「生体制御」と「生体防御」という2つの役割があるとされています。生体制御とは、個体(例えば人間)の完全性を保つ役割です。どういうことかと言うと、もし細胞が無限に増殖すれば私たちの身体は無限に大きくなりますが、そうならないのは個々の細胞が個体全体を認識し不要な細胞が自ら死ぬことで、人間としての個体を保っているのです。もう1つの役割である生体防御では、例えばウイルスやガン細胞などの内外の敵が現れた場合、敵による異常をきたした細胞がアポトーシスによりその細胞を消去することで、個体全体を守る機能を果たしています。
ちなみに、私たち人間の成人の身体は約60兆個の細胞でできているそうです。うち、1日で死ぬ細胞数は3000億~4000億個ほどで、重さにして約200gとのことです。これにより、老化した細胞や発ガン性物質により異常となった細胞が消去されます。こうして私たちの身体では日々新しい細胞へと入れ替わっており生きているのです。つまり、人間の「生」のための細胞の「死」なのです。
■ヒトはどうして死ぬのか
ここまで、「死」を細胞のレベル、とりわけアポトーシスという細胞自らの死を見てきました。そこで、今度は「死を人としての死」を考えてみます。「ヒトはどうして死ぬのか」という本の特徴は、なぜ人は死ぬのかについて生物学的な側面と哲学的な側面の両方から書かれている点だと思います。
本書によると、動物の最大寿命と細胞上限分裂の回数は比例していると言い、それによると人間の最大寿命は120歳のようです。もちろんこれは理論上の数字であり、実際には紫外線・化学物質や暴飲暴食・ストレスなどの様々な後天的な環境・生活要因で、人間は最大寿命まで生きることができないのが現実です。
本書を読んで考えさせられたのは、「人はなぜ死ぬか」という命題についての哲学的考察でした。細胞のアポトーシスについてあらためて考えてみると、アポトーシスとは、ある細胞が自ら死を選択することで全体の細胞(例えば人間)が生きているという構図です。すなわち、個が利他的に振る舞うことで全体は利己的な存在でいられるのです。
では個を人間と捉えると、全体は何になるのでしょうか。それは人間の集合である人類と捉えることができると思います(なお、本書では全体を地球にしていますがこの記事の文脈上、全体を人類としました)。細胞はアポトーシスにより全体である人を生かしました。これと同じことが、人間と人類においても当てはまるのではないでしょうか。
■生きるとは何か
これは、自分の死生観とも言えることですが、生きることとは次の世代に何を残すかだと思っています。残すというのは、直接的には子孫を残すことであり、間接的には自分の経験や考え・意見、あるいは生き様を他人の心の中に残すことだと考えています。
子孫を残すことだけであれば、例えば産卵後すぐに死んでしまう鮭などと同様に生殖期間だけでその役割を果たすことができます。しかし、人間は生殖期を終えてもその後も何年も生きることができる動物です。この意味を考えたとき、前述の間接的な役割もまた大きいのではないでしょうか。これが、人間が社会の中で生きることの意味でもあるように思います。
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書籍「死刑絶対肯定論」の内容整理とそこから考えたこと
「死刑絶対肯定論 -無期懲役囚人の主張-」(美達大和 新潮新書)という本を読みました。著者の考察の深さや受刑者達のリアルな実態、また具体的な提言など考えさせられる内容が多く、読んで良かったと思う本でした。
この本の特徴は著者自身が無期懲役の囚人である点です。罪状は二件の殺人。現在は、刑期十年以上かつ犯罪傾向が進んだ者のみが収容される「LB級刑務所」で服役しています。
著者は「死刑絶対肯定論」という本書のタイトル通り、死刑在置論者です。本書では「死刑こそ人間的な刑罰である」とさえ言っています。読み進めていくと、現役受刑者にしか持てない視点で書かれている内容が数多く出てきます。詳細は後述しますが、だからこそ、これだけの説得力のある内容の本だと思いました。
■著者が「死刑絶対肯定」に至った反省しない受刑者達
著者は、自分が服従してみて殺人罪の量刑が軽すぎると痛感したと言っています(p.81)。しかしもともと自分が服従するまでは、そのようには考えていなかったそうです。なぜなら、懲役10年や15年という年月は相当に長く、受刑者は罪を悔い反省し、服従生活を通して改心すると思っていたからです。
ではなぜ著者は、殺人罪の量刑が軽すぎると思うのか。(ちなみにここで言う殺人罪の量刑とは、懲役○年・無期懲役を指していると思われます) 軽すぎると痛感する理由は、「犯罪者はほとんど反省をしない」からです。この点は本書を読んで驚いたことでもありますが、著者が実際に見聞きした受刑者達の実態として以下のような例が書かれています。印象的だったので、本文をそのまま引用します(p.72)。
---------------------------------------------------------------------
務めてみてすぐに気が付いたのは、長期刑務所の受刑者達の時間に対する観念の特異性でした。
「10年なんて、ションベン刑だ」
「12、3年は、あっという間」
「15年くらいで一人前」
「早いよ、ここの年月はさあ。こんなんなら、あと10年くらいの懲役刑なら、いつでもいいね」
「考えていたのと全然違ったよ。こんなに早く時が過ぎるとはねえ」
---------------------------------------------------------------------
そして、この時間認識の特異性に加えて、殺人事件で服従している受刑者のほとんどが、反省や謝罪や改悛の情とは無縁であると指摘しています。自分の罪の意識を持つものは稀であり、むしろ(自分が殺した)被害者に責任を転換し非難する者が多数であり、遺族の苦痛等の心情を忖度する者は極めて少数だとすら書かれています(p.82)。あくまで著者のまわりの受刑者に対する実感ベースとしてですが、反省をしている者は1~2%というのがせいぜいだそうです(p.161)。
このように、受刑者達の時間認識の特異性、また、殺人という罪を犯したことに対して反省すらない受刑者を数多く見てきた著者は、死刑を絶対的に肯定すると主張しているのです。なお著者自身についての補足ですが、二件の殺人を犯したため本人は死刑を求刑したようです。しかし判決は無期懲役であり、生涯に渡り謝罪をしていくことを決め社会復帰は希望していないと書かれています。
■「人間的な刑罰」とは
著者の考えに、「犯した罪に見合った刑罰を科すべきである」というものがあります(p.145)。人の命を奪い、残された遺族に悲しみを与えたにもかかわらず、反省しない受刑者が刑期を終え社会に戻るのを見続けた著者は、不条理だと認識しているためです。
よって、死刑を科されるような罪を犯した者には、適切な時間を定めて執行し自らの命を以って自分の責務を果たすようにすること、それが値しない者には無期懲役を科すことで、刑務所で厳しく改善指導をすることこそ、人間らしい処遇であると説きます。
前述のように受刑者は反省をしないとされていますが、一方で死刑囚には、反省し改悛の情を示す者が想像以上にいるという印象を著者は語っています。死刑により自分の死と向き合うことで、このような状態になるのかもしれません。死刑と無期懲役の差はここにあるように思いました。また、本書で取り上げられていた法廷でのある遺族の、次の言葉が印象的でした。「(死刑が)執行されても赦さないが、納得する。新しい人生を歩いていく区切りになる。」
殺人事件では被害者は二度と生き返ることはありません。殺人という犯罪行為の責任を取るため加害者も自らの命を以って責務を果たすことが、著者の言う「人間的な刑罰」なのではないかと思いました。
■著者の提言
以上を踏まえ本書で提言されているのは、「不定期刑」と「執行猶予付き死刑」です。不定期刑とは、服役年数の上限・下限を決めておき、服役中の受刑者の態度・行動によって刑期を調整するというものです。執行猶予付き死刑というのは、現在の死刑はそのまま残し、別に定めた条件を満たさない場合は死刑とするものです。
執行猶予付き死刑の考え方は受刑者に自らの罪に向き合わせることに根ざしており、その具体的な方法として、字数(4000~6000字)を指定したレポート作成を受刑者に提出させることが提言されています。課題例として、まずは「自分の罪とは何か」、「何故そうなったか」、「自分の生活と事件の関係」等、レポート課題により自分について深く考察することを促します。次の段階として、「命を奪われるとはどういうことか」、「被害者の最期の様子」、「自分が被害者であればどう感じるか」、「償い・謝罪とは」等々、徹底的に「死」と向かい合うような状況をつくるのです。
一方で、著者は死刑基準の再設定も求めています。被告人の境遇や将来するかわからない更生の可能性よりも、罪という行為こそを重視し刑を科すことが望ましいとします。また、被害者がたとえ一人であっても場合によっては死刑を適用するよう基準を変えるべきと主張しています。
■そもそも刑罰とは何か
ここまで、本書の内容や著者の主張を自分なりに整理したつもりです。冒頭で、本書の特徴は著者が無期懲役の囚人であると言及しましたが、逆に言えば、本書から伝わる受刑者の実態や具体的な提言は、この著者でなければ及ぶことができないリアルな内容だと感じました。
ではあらためて刑罰について考えてみると、刑罰を科す目的とは何でしょうか?この本を読んで、加害者が自分の犯した罪を向き合い罪を償うことと、殺人などの刑事事件を発生させない抑止力にあると思いました。
前者は、まさしく著者の本書を通じた主張です。ここでは、後者の抑止力について少し考えてみます。抑止力というは、初犯を起こさないことと、前科のある者が再び罪を犯さないことへの2つがあります。今回の書籍「死刑絶対肯定論」では、著者は囚人であるが故に自分の経緯や立場、また他の受刑者の実態を考慮しての提言となっています。つまり、本書の提言が当てはまるのは、刑罰による2つの抑止力のうち、特に後者である再発防止だと思うのです。
同じテーブルに並べることに抵抗を感じますが、マーケティングでは消費者の購買行動を、初めてその商品を買う「トライアル」と、気に入ったから次もまた買うなどの「リピート」に分けることがよくあります。例えば、期間限定商品などはトライアル購買を狙っており、定番商品はリピート購買が安定しているからこそのロングセラーという感じです。
話を犯罪への抑止力に戻すと、上記の著者の提言は再犯防止には効果があるのかもしれませんが、初犯を未然に防ぐという意味では、どこまで影響を与えられるかと思ってしまったのが正直なところです。(もちろん、その具体的な方法は持っていませんが)
本書は、死刑在置論と廃止論において一石を投じるものとなる、またなってほしいと思わせる内容でした。受刑者の立場からの視点で書かれており、かつ具体的な提言がされています。本書は(賛成・反対問わず)一読の価値があるのではないでしょうか。
この本の特徴は著者自身が無期懲役の囚人である点です。罪状は二件の殺人。現在は、刑期十年以上かつ犯罪傾向が進んだ者のみが収容される「LB級刑務所」で服役しています。
著者は「死刑絶対肯定論」という本書のタイトル通り、死刑在置論者です。本書では「死刑こそ人間的な刑罰である」とさえ言っています。読み進めていくと、現役受刑者にしか持てない視点で書かれている内容が数多く出てきます。詳細は後述しますが、だからこそ、これだけの説得力のある内容の本だと思いました。
■著者が「死刑絶対肯定」に至った反省しない受刑者達
著者は、自分が服従してみて殺人罪の量刑が軽すぎると痛感したと言っています(p.81)。しかしもともと自分が服従するまでは、そのようには考えていなかったそうです。なぜなら、懲役10年や15年という年月は相当に長く、受刑者は罪を悔い反省し、服従生活を通して改心すると思っていたからです。
ではなぜ著者は、殺人罪の量刑が軽すぎると思うのか。(ちなみにここで言う殺人罪の量刑とは、懲役○年・無期懲役を指していると思われます) 軽すぎると痛感する理由は、「犯罪者はほとんど反省をしない」からです。この点は本書を読んで驚いたことでもありますが、著者が実際に見聞きした受刑者達の実態として以下のような例が書かれています。印象的だったので、本文をそのまま引用します(p.72)。
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務めてみてすぐに気が付いたのは、長期刑務所の受刑者達の時間に対する観念の特異性でした。
「10年なんて、ションベン刑だ」
「12、3年は、あっという間」
「15年くらいで一人前」
「早いよ、ここの年月はさあ。こんなんなら、あと10年くらいの懲役刑なら、いつでもいいね」
「考えていたのと全然違ったよ。こんなに早く時が過ぎるとはねえ」
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そして、この時間認識の特異性に加えて、殺人事件で服従している受刑者のほとんどが、反省や謝罪や改悛の情とは無縁であると指摘しています。自分の罪の意識を持つものは稀であり、むしろ(自分が殺した)被害者に責任を転換し非難する者が多数であり、遺族の苦痛等の心情を忖度する者は極めて少数だとすら書かれています(p.82)。あくまで著者のまわりの受刑者に対する実感ベースとしてですが、反省をしている者は1~2%というのがせいぜいだそうです(p.161)。
このように、受刑者達の時間認識の特異性、また、殺人という罪を犯したことに対して反省すらない受刑者を数多く見てきた著者は、死刑を絶対的に肯定すると主張しているのです。なお著者自身についての補足ですが、二件の殺人を犯したため本人は死刑を求刑したようです。しかし判決は無期懲役であり、生涯に渡り謝罪をしていくことを決め社会復帰は希望していないと書かれています。
■「人間的な刑罰」とは
著者の考えに、「犯した罪に見合った刑罰を科すべきである」というものがあります(p.145)。人の命を奪い、残された遺族に悲しみを与えたにもかかわらず、反省しない受刑者が刑期を終え社会に戻るのを見続けた著者は、不条理だと認識しているためです。
よって、死刑を科されるような罪を犯した者には、適切な時間を定めて執行し自らの命を以って自分の責務を果たすようにすること、それが値しない者には無期懲役を科すことで、刑務所で厳しく改善指導をすることこそ、人間らしい処遇であると説きます。
前述のように受刑者は反省をしないとされていますが、一方で死刑囚には、反省し改悛の情を示す者が想像以上にいるという印象を著者は語っています。死刑により自分の死と向き合うことで、このような状態になるのかもしれません。死刑と無期懲役の差はここにあるように思いました。また、本書で取り上げられていた法廷でのある遺族の、次の言葉が印象的でした。「(死刑が)執行されても赦さないが、納得する。新しい人生を歩いていく区切りになる。」
殺人事件では被害者は二度と生き返ることはありません。殺人という犯罪行為の責任を取るため加害者も自らの命を以って責務を果たすことが、著者の言う「人間的な刑罰」なのではないかと思いました。
■著者の提言
以上を踏まえ本書で提言されているのは、「不定期刑」と「執行猶予付き死刑」です。不定期刑とは、服役年数の上限・下限を決めておき、服役中の受刑者の態度・行動によって刑期を調整するというものです。執行猶予付き死刑というのは、現在の死刑はそのまま残し、別に定めた条件を満たさない場合は死刑とするものです。
執行猶予付き死刑の考え方は受刑者に自らの罪に向き合わせることに根ざしており、その具体的な方法として、字数(4000~6000字)を指定したレポート作成を受刑者に提出させることが提言されています。課題例として、まずは「自分の罪とは何か」、「何故そうなったか」、「自分の生活と事件の関係」等、レポート課題により自分について深く考察することを促します。次の段階として、「命を奪われるとはどういうことか」、「被害者の最期の様子」、「自分が被害者であればどう感じるか」、「償い・謝罪とは」等々、徹底的に「死」と向かい合うような状況をつくるのです。
一方で、著者は死刑基準の再設定も求めています。被告人の境遇や将来するかわからない更生の可能性よりも、罪という行為こそを重視し刑を科すことが望ましいとします。また、被害者がたとえ一人であっても場合によっては死刑を適用するよう基準を変えるべきと主張しています。
■そもそも刑罰とは何か
ここまで、本書の内容や著者の主張を自分なりに整理したつもりです。冒頭で、本書の特徴は著者が無期懲役の囚人であると言及しましたが、逆に言えば、本書から伝わる受刑者の実態や具体的な提言は、この著者でなければ及ぶことができないリアルな内容だと感じました。
ではあらためて刑罰について考えてみると、刑罰を科す目的とは何でしょうか?この本を読んで、加害者が自分の犯した罪を向き合い罪を償うことと、殺人などの刑事事件を発生させない抑止力にあると思いました。
前者は、まさしく著者の本書を通じた主張です。ここでは、後者の抑止力について少し考えてみます。抑止力というは、初犯を起こさないことと、前科のある者が再び罪を犯さないことへの2つがあります。今回の書籍「死刑絶対肯定論」では、著者は囚人であるが故に自分の経緯や立場、また他の受刑者の実態を考慮しての提言となっています。つまり、本書の提言が当てはまるのは、刑罰による2つの抑止力のうち、特に後者である再発防止だと思うのです。
同じテーブルに並べることに抵抗を感じますが、マーケティングでは消費者の購買行動を、初めてその商品を買う「トライアル」と、気に入ったから次もまた買うなどの「リピート」に分けることがよくあります。例えば、期間限定商品などはトライアル購買を狙っており、定番商品はリピート購買が安定しているからこそのロングセラーという感じです。
話を犯罪への抑止力に戻すと、上記の著者の提言は再犯防止には効果があるのかもしれませんが、初犯を未然に防ぐという意味では、どこまで影響を与えられるかと思ってしまったのが正直なところです。(もちろん、その具体的な方法は持っていませんが)
本書は、死刑在置論と廃止論において一石を投じるものとなる、またなってほしいと思わせる内容でした。受刑者の立場からの視点で書かれており、かつ具体的な提言がされています。本書は(賛成・反対問わず)一読の価値があるのではないでしょうか。


