無脳症 心拍停止 死産を通して... 幸せの道をまっしぐら

無脳症 心拍停止 死産を通して... 幸せの道をまっしぐら

2020年11月14日
11:37 447gの女の子を死産しました。

8月に無脳症と診断されてから
クリスチャンとして
牧師の妻として
ずっと癒しを信じて闘ってきた
記録です。

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なんで金沢行くって決める前に

相談しなかったんだろ。

なんでちゃんと考えてから

返事しなかったんだろ。

どうもすみません、

ドラマの話です笑。



仕事を取るか結婚を取るか。

最近は女性の社会進出も進み

昔と比べて女性でも

ちゃんとキャリアが積めるようになったので、

そう悩む人は多いはず。




そんな私も、

1番仕事が楽しい全盛期に、

結婚の方を取った1人です。




正確には、神様を選んだ。

でもそれはイコール、

いまの主人と結婚する道だ

ということは明らかで、

逆にあの時仕事を選んでいたら、

彼と結婚はしていなかったと思います。

でも前回書いたように、

私は結果的に「仕事」失いませんでした。




これが神様のやり方。





私が仕事を辞めたのは25歳。

ある意味結果も残して色々やり切って、

本当はその先のキャリアのオファーも

頂いていました。

新卒でまぁまぁもらっていたけれど、

その先に進めばさらに

1.5倍くらいの給料になることも

新しい地でさらなるチャレンジをして

自分をブラッシュアップ出来ることも

自分にとって魅力的じゃないわけでは

ありませんでした。




それが自分らしい生き方かな??




自分の人生が

「牧師婦人」になって

誰かのオマケのような人生を生きることに

なってしまっても良いのかな。




そう悩まなかったわけではなかった。




もしあの時

仕事を取るか結婚を取るか

という選択だったら、

もしかしたら仕事を

取っていたかもしれません。


でもあの時問われたのは

「神様を取るか取らないか」

の選択でした。

そして神様を取った結果、

仕事を辞めてアメリカに行き、

帰国して結婚するという人生になりました。

そしてその選択を後悔したことは

1回もありません。




最近夜主人と

我が家の家計と教会会計の話になりました。


もともと主人の願いは初めから

私がフルタイムで牧師として

教会にコミットすること。

その良い例をアメリカでもたくさん

見てきました。

夫婦でしか出来ないことがある。

それはもちろん私も賛成です。

でも結婚してから何度も

「あぁーーーーーーーーーー

仕事をしたいーーーーーー

社会に出たいーーーーーーーー

働かせてくれぇーーーーーーー」

となっていて、

結果いまは

社会で働かせてもらっています。

私もそれは経済的な応急措置であり、

というよりも、

去年一年牧師のみで生きられた

実績があるので、

この仕事/収入はあくまでエクストラで、

本来は必要ないけれど私がやりたいから

やらせてもらっている、

という感覚でした。

いつかはフルタイムで

私も教会一本でいくことになるはず。

その時にはそれが

最高に楽しいなと思って出来るように

なっていたいなと願ってはいます。

でもいま、仕事が最高に楽しい。

その中に神様のいつくしみと恵みが

たくさん追ってきているのを見ているし

御国が拡大していくのを見ています。

経済的にもたぶん結婚してから1番

いまが落ち着いています。


そしてその時、主人が言いました。






「自分の理想としているものとは

違うけど、

あなたがあなたらしく

生き生きしていることを

素直に良かったなと

思えるようになった。」





わお。






ちょうど最近会った尊敬する牧師にも

「Be yourself! 

他の誰かのようなリーダーに

なろうとしてはいけません」

と言われたばかり。





でも以前は、

私が仕事ばかりにやり甲斐を感じて

家庭や教会に

全然パッションを感じられない姿を見て

誰よりもそのことに反発を覚えていた

主人でした。

だから仕事をしている私を

「私らしい」と

喜んでくれたことは

大きな変革でした。



彼がそう思ってくれた

ひとつの理由は、

仕事していても専業主婦でも

私は牧師であるという道が

ちょっと確立してきたこと。

もうひとつは、

この与えられている仕事が

神様から与えられていることが

明らかであることです。



牧師は「タイトル」ではなく

「役割」です。

タイトルだけ持っていても

何も役割を果たさないことも出来るし、

他のタイトルを持っていても

牧師としての役割を果たすことも出来る。

いまこのタイミングで

これだけ家庭と教会を

優先させてもらえる仕事が

与えられているということは

明らかに神様のfavorです。

私が「社会で認められること」

「自己承認」や「自分らしさ」

を追求するために探し出した

仕事ではありません。

牧師であることを優先しながら

経済的な助けを得るために

与えられた仕事。

それをしている私がいま

1番自分らしい。




神様が私を造った時に

「この子はこのように生きるように」

と定められた生き方。

それが「私らしい」の正体です。





神様は私のしたいことを

すべて奪い去る神様ではないし、

同時に自分のやりたいことをすべて

優先する生き方が

自分らしい生き方でもありません。







いままでは正直

いつこの仕事が奪い去られても

落ち込まないようにしよう

と予防線を張って生きていました。

ここはゴールじゃない。

いつか牧師一本を喜べるように

ならなきゃいけないのかなと。

与えられている給料も

いつ奪われても良いように

自分に与えられたものと認識しないように。

そんな意識がありました。

でもちょっと素直に、

これが我が家に与えられた

祝福の形として

感謝して受け取って良いのかな

と思えました。