くるまじゃないよ

くるまじゃないよ

しゃべれないけど歌えるよ

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他のSNSだとどうしても細切れになってしまうので、

長い文章を書くならこっちかな~とヘロヘロ戻ってまいりました(~・ω・)~

 

リトルマーメイド、言わずと知れた名作ですね。

アンデルセンの原作を、ディズニーがアニメに合うように、

そしてそれをまた劇団四季が舞台風に、アレンジにアレンジを重ねた作品。

有名作品なので、ネタバレも何もないかなと思うのですが、

劇団四季の作品としてのリトルマーメイドを今後観たい方はご注意ください。

 

 

結果として、劇団四季のアレンジは良かったです。本当に良かった。

ただ、観賞前に若干予想していた、

「物語の本筋に影響することはない程度の安易な恋愛感情の挿入」

これはやっぱりありましたね…フランダー、君そんな立ち位置だったん…

 

話は脱線しますが、実は私、幼馴染の恋愛ものが大好物です。

けど、幼馴染が異性であるからといって、必ずしも恋愛感情は芽生えなくても良いと思うのです。お互い淡い恋心のようなものを抱いていたとしても、親友止まりでも十分楽しいじゃない。美しいじゃない。上手く言えないけど。

舞台風アレンジって、たまにそういうちょっと無茶な改変があるんですよね…〇塚の戦国BASARAとか…

物語を通して献身的なフランダーが、序盤で想いを伝えるような伝えていないような場面があるのですが、それに対する答えを最後まで受け取ることはできず(そもそも煮え切らない告白だったからというのもあるだろうけど)、それでも物語最後まで相手の幸せを願いながら心を砕き続けるという描写…

真の愛ここにあるじゃん

淡い恋心どころか深い愛情じゃん。いやアリエルと同年代だとしたら15歳でしょ。15歳でこんな達観できる? 成熟が早いわ。魚だからか…?

もうホント人(魚?)としての器ができすぎでしょフランダー…むしろそんな健気な君が幸せになってほしいよ……

 

…とまぁ、アリエルとエリック王子そっちのけでフランダーを応援していました。こんなことある?笑

でもそういう新しい見方ができたのは収穫だったなーと思います。

主人公たちの行く末がわかっているからこそ、脇役に注目してしまうのかな?

それを狙っての脚本だとしたら…劇団四季、おそろしい子……

 

 

 

もう主人公たちそっちのけで感情移入しまくってたんですが、セバスチャンもなかなかやばかったですね…

最初のコンサートの場面では、アリエルに対しては手のかかる部下への態度を取っているように思えたのですが、王に命ぜられた使命を果たすべく奔走し、その都度(秘密も)報告をし、さらには双方の仲介役まで買って出て…最高の中間管理職では?

ただそれ故に気苦労が絶えないのだろうなぁと、こちらもフランダーと同様どうしても幸せを願わずにはいられないキャラでした。

 

ただセバスチャンの最大の見せ場(?)である、"Under the sea"の場面はやっぱり最高でした。

美女と野獣の"Be our guest"も私の中では同じカテゴリなのですが、これらの曲を聞いていると、自らの使命に誇りを持っている人(?)達にこんなに楽しませてもらえるなんて、なんて贅沢なひとときなんだろうと思ってしまうんですよね。

それ言ったらミュージカルってどの場面でもそうなんですけど。

でもそれが顕著に出ている場面だなーと思うんです。だから好き。

まぁキャッチーなリズムに合わせて手を叩いてるうちに、IQ3くらいになってますからね、確実に。赤ちゃんだから難しいことわかんない。キャッキャッ、バブゥ👶👏

 

全体として、アニメ版より脇役が立っているように感じられました。

単に歳を取って見方が変わっただけかしら?

ただもうちょっとアースラ様に強キャラ感が欲しかったな……

あれは幼稚園の年長だったか、それとも小学校に上がりたての時期だったか。
祖父から「100万回生きたねこ」をもらって、絵本が大好きだった私はすぐに手に取ったんだけど。

当時はもちろん、これまでずっと「どうしてねこは100万回生きたのか?」っていう問いの答えが分からなかったなぁ。貰ってそんなに経ってないうちは何度も読み返したけど、
(なんかこのねこすごいな…)
くらいしか思えなくて、でもそんなんじゃ意味が分かったことにはならない気も幼いながらにぼんやりしてて、意味が分からないものから逃げるみたいに、だんだん読まなくなったなぁ。悔しさもあったんだと思う。あの絵本、確か対象年齢が7歳~とかだったかな。でもあの内容なんだよなぁ…すごい。

そんなこんなでもう10年以上あの絵本を手にとっていないから内容もうろ覚えなんだけど、ついこないだぼーっとしているときにふとこの絵本のことが浮かんで、思いを巡らせてみたわけですよ。


あのねこは、最後は眠るように死んだんだっけなぁ。その前は確か白猫に恋をしていたんだったかな。その白猫が死んで、その骸を抱えながら悲しみと寂しさと色々ごちゃまぜになって昼夜泣き続けていたんだよなぁ。泣き続けている「動」の状態と、死ぬときの「静」の状態の対比が当時は初めて触れるものだったのと、死という怖いものの描写があっさりし過ぎているように思ったんだった。ここまで言語化はしていなかったけど、ぼんやり(このお話において行かれてしまった)みたいな感覚があったのは覚えてる。だからその後、この絵本を手に取らなくなったのには悔しさもあったのかも。今でもたびたび思うけど、本当に私は傲慢であり続けてるんだよなぁ。そんな行動に至るまでの思考としてはそんなつもりは毛頭ないんだけど。
私の生き方についてはひとまずおいといて、今はねこの話をしていたんだった。戻ろう。
「どうしてねこは100万回生きたのか?」
この問いについてというより、思い至ったのは
「100万回生きたねこは、どうしてその先にまた生きなかったのか?」
ということなんだよなぁ。(※ここから大変クサイ内容になりますのでご注意!)
白猫と出会う前、ねこはひどく淡々と生きていたよね。何回も生を重ねたからといっても、知恵をつけてよくある「リセット→コンティニュー」の流れを辿るのではなく、ただその都度ねこ自身が生きている今を淡泊に過ごすんだよね。飼い主の女の子に抱っこされても何されても心を動かさない、まさに「猫 of 猫」とでもいうべき隣人としての存在。でもねこ自身もねこにとっては「隣人」だったというか、どこか自分の生から距離を取っていたというか。執着というものがなかったように思う。
それが最後に変わったんだよなぁ。ねこは白猫に恋をして、多分愛してしまった。愛という執着が、ねこの中にその時初めて生まれたんだろうなぁ。何かに執着することで、ねこは「隣人」としてよりもぐっとこちら側に近づいたというか、人間くさくなったように私は感じた。
で、この変化によってねこは、全ての存在に対する「隣人」としての存在を捨て、ねこ自身として生き始めたのかなと思った。ねこ自身の時が進み始めたみたいな。だから、それまでのすべての生はねこ自身が「生きた」のではなくて、ただ生と死を繰り返し経験しただけだったのかなと。もう完全に主観なんだけど、それまでのねこにとっては生も死も不可逆的で、それこそ夜眠って朝起きるくらいの気軽さで経験するものだったのが、何かに執着することでがらりと変わってしまったんだろうなぁ。白猫に執着してやっと自分の生に執着できるようになって、どこかふわふわしていたのが地に足がついたみたいな変化。そして最後、きちんとその生を生き抜いたあかつきにきちんと死を迎えた……

というへっぽこ考察。
誰かを愛すると世界が色づくという感覚に似ているのかも、とか思ったり。

きっと僕の空は 君を見上げたとき出来たんだ

かなり前のボカロ曲だけど、vataco(バタパンP)さんのサクラ唄の歌詞中で一番好きな部分。世界が色づくというのはきっとこんな風なんだろうなぁ。
最終的に、誰か(自分も含める)を愛することができて初めて「生」というものが始まるんだよ、ということをこの絵本は伝えたかったのかしらというところに至った。作者の意図を考えるのはもう受験生時代からの癖みたいなものです笑

…やっぱりちょっと、この絵本は子ども向けにしては難しいのではないかしらん。
自分はソフトな方なのかもしれない

ATM扱いを公言し、相手の悪口を言う母親、それを無視する父親
両親は不仲だった

それだけに母は娘への期待が高かったみたいで、平日はほとんどすべて習い事に行かされた
たいていは夕方からだったから、友達と遊ぶことはできたが
習い事のピアノの練習をしていると
「そうじゃない、また同じところで間違えた、そこ100回弾き直しなさい!」
と台所から罵声が飛んできた。ピアノの教師でもないのに
実際サボると聞こえるから、言われた通りのことをやった
そうじゃなきゃ夕食抜かれそうだったし

そこで評価しろというのも変だけど、習い事に通っていた当時は疲弊するだけだった
今となってはピアノも英会話も教養の一環として習っていて良かったと思うこともあるけど

課題をこなしてもこなしても、終われば次の課題が待っていて
課題をこなした自分を認めてくれるのではなく、やったことの評価だけしか待っていない
でも当時の私は考えることを放棄していた?からか、「頑張ったら認められる」ことしか考えてなくてただ我武者羅だった
「頑張らなかったら認められない」ってことに気付いたのはつい最近

自己肯定感の欠如とは、幼少期の家庭環境において「安心」が得られなかったことに起因する、
って誰かが言ってたな

「そのままでいいんだよ」と言われることに慣れてない
そうは言ってくれるけど、頑張らなきゃ私程度の人間じゃ受け入れてもらえないと思ってしまう

もっと素直に生きたかったよ
なつかしのブログにて、もはやなつかしとなりつつあるアナ雪の話でもしましょうか

あの映画を初めて観たあとの感想は、なんとなくもやもやしたものでした。
「あれが感動作? 信じられない…ツッコミどころ多すぎるしなんだあの無理やりなストーリー展開」
一緒に観に行った人には「やっぱり歌が良かったよね」などとたわいもない話をしていましたが。それくらいの分別はあったので後々安心しました。

他に観に行った人たちの感想を聞いても「エルサと自分が重なって泣けた」とか「ハンスまじネタすぎwww」みたいな、どちらかといえばプラスの方向に傾いたものが多くて、なんとなく言葉にできずにいました。

でもアレをいいお話として片付けるのはやっぱり納得いかないんですよね。
だってまずエルサが自分の能力を抑えなきゃいけなくなったのって、もちろん彼女が幼かったせいや故意ではなくても人を傷つけうる能力であることはありますけど、一番大きいのはドワーフの長や国王夫妻がその能力を畏怖して抑えるように育てたからじゃないですかね。
右も左もわからない、ましてや将来の周りの反応なんて想像もつかないような幼い年齢の彼女が、自身の能力を「得体の知れない厄介なもの」として抑え込む結果になってしまったのは、本当に残念なことです。正体のわからないものに背を向けていたら、対処のしようがないに決まっています。
ましてや幼かった彼女にとって絶対的であっただろう両親まで自身の能力を恐れているのなら尚更。彼女は両親によって抑圧された自身とたった一人で向き合うしかなかったのです。

国王は彼女に「お前のためなんだ」ということを言っていましたが、あれは嘘です。
もっとも、本当にそう思っていたのかもしれませんが、仮にそれが本心だったならば幻滅しかできません。
本当に彼女のためを思うなら、彼女が能力を使っても否定されないような環境を整えるべきだし、彼女にも「抑える」というより「うまく活用する」という方向の話をしなければならないと思います。
だいたいドワーフの長が脅しすぎなんですよね…だから両親の決定も致し方ないところもあるのかもしれませんが。
そうやって、彼女の能力を受け入れずにぽっくり波間に消えるなんて、本当に都合のいい消え方をしたものですよ…しかも誰一人としてそこをとがめない。エルサ自身も両親による抑圧に気付いていなかったんでしょうね。

ずっとずっと、ああやって国民に惜しまれながら去っていくあの国王夫妻に対してもやもやしていたんだな、とついこの間気付きました。
それに、抑圧されて、自らでも抑圧をしていた彼女自身が「そう、愛よ…愛なのよ!」などと目覚めるシーンが本当にクソだなと思います。
直前にオラフが愛について語るシーンはありましたが、そのシーンはアナしか他に登場しませんし、ああいう育ち方をしてしまった姉妹が「愛」というものの具体像をつかめているはずがないんです。だって親から愛されていないのですから。

体罰など、体に傷の残る虐待をしていたわけではありません。でも国王夫妻のあれは、少しずつエルサを追い詰める精神的な虐待だったのではないかと思います。
罵倒されなくても、逃れようのない一本道に親が追いたててしまうと子どもはきっと歪んでしまいます。

そういうわけで、本当にもやもやした作品でした。
「生まれて初めて」の姉妹の感情の対比は好きですが。