先日、外出した時に、ふと目にした光景に、涙が出た。


障害児の放課後デイから、大泣きした男の子と女性の職員さんが二人で出て来た。


私にとってはついこの間だと感じる数年前の、甥っ子に、その姿を重ねた。



甥っ子は中学卒業と同時に、親元から離れて、施設に入所した。

そして、高校卒業のタイミングでグループホームに入り、そこで暮らしている。


小学校高学年くらいから、パニック、自傷、他害行動が出始めて、ママだけではどうにもならず、私や私の夫や、今は亡き私の母も、急遽駆けつける、という事が数年続いた。


健常児でも、思春期で心と体のバランスが保てない時期。

甥っ子は言葉が話せないから、気持ちが伝えられない。

何かが不快だったり、何かを求めていたり、感覚過敏でストレスだったり、誰かが嫌だったり。

そういったとき、家族や支援者は理由が分かるときも分からないときもある。


また、障害特有の物事へ固執は、何かを繰り返すことが心の安定だったりするが、でもそれにすべて合わせることは家族は難しいことも多々ある。


あと、過食もあり、体の事を考えると、すべて食べたい物を食べさせてあげるのは愛ではない。


学校では滅多にパニックは出なかったが、時々、放課後デイでもパニックになり、職員さん一人が甥っ子に掛かりきりで、お散歩に二人で出てくれていた。

甥っ子はその職員さんが大好きで、お散歩で落ち着いていたようだ。


そういう過去がある。



私は甥っ子が施設に入ってから、姉と共に2週間に1回、面会に行っていた。

グループホームに入ってからも。


でも姉との関係がつらくなり、行けなくなってしまった。

母が亡くなって5年経ったころだった。


姉との関係が悪化すると、甥っ子に会えなくなる可能性があるのは分かっていた。

だから、色々姉に思うことがあっても、ある意味我慢していた。


しかし、あるきっかけで、姉と頻繁に会うことが私にとって良くないと痛感して、面会に一緒に行くことを断った。

そこから2回は個人的に面会に行ったけど、あまり良くない気がして、それ以来、甥っ子に会えていない。

もう1年半・・・こんなに会えなかったことは、甥っ子が生まれてから一度も無い。


もう年齢的に、子供ではないし、グループホームに入っていると言うことは、自立していると捉えられる。

けれど、甥っ子は自分で言うのはなんだけれど、私のことが好きなのだ。

人間として相性が合うというか、ママの姉よりも私に顔も体のパーツも似ているし、パニックの時も私が行くと落ち着いたり。

だから、姉は私を頼りきりだったところがある。


急に行かなくなって、寂しい思いをしているのではないかの心配している。

何よりも私自身が甥っ子に会えなくて寂しい。




そんな中、甥っ子の子供時代を思い出す場面を目にして。


「私は甥っ子のために何も出来ていない」と自責の念にかられた。

寂しい思いをさせてると思った。


自殺してしまった父と甥っ子を重ねてしまう。

父は、くも膜下出血で障害を負ってしまった。

そして施設に入って生活していた。


中学1年の夏、私はしばらく父に会いに行っていなかった中、父が自殺してしまった。

もう誰にも寂しい思いをさせたくない。

そのトラウマや後悔が、私の人生にずっとあった。


父と同じ環境、体のハンデを持った甥っ子には寂しい思いをさせたくない。と思っていた。

そして姉と一緒にいることがつらくても、姉のことを傷付けることが怖かったから、自分の心や人生を犠牲にし続けた。


今、私はどうしたら良いのか正直分からない。



その大泣きした男の子と職員さんの姿を見て、涙を堪えられなかった。


でも、それって、私が勝手に可哀相だと思っているのかもなと思った。

そうやって、健常児でも障害児でも、親以外のたくさんの支援の中で、育っていくんだ。

そう思った。


甥っ子も、たくさんの、本当にたくさんの、

職員さん、支援員さん、市役所の人、学校の先生たちから支えられてここまで来たんだよな。

だから、彼の中には、私が知らないかもしれない、たくさんの愛情・優しさ・思いが注ぎ込まれてきたのだと思った。


大好きな甥っ子が、たくさんの人たちに大切にされてきた。

みなさん、私の大好きな甥っ子のこと、ありがとうございます、と思った。

そして、今日も、そうやって彼はグループホームや作業所で、頑張って自分の人生を生きているのだ。



情けない叔母だ。

でも私もたくさんの人たちに支えられて、愛情を貰って生きてきた1人だ。

忘れないで居よう。


その場面を一瞬みたことは偶然ではないのだと思う。

心がチクチクしたけれど、父のトラウマを重ねてはいけない。


甥っ子の人生はずっと輝いている。