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 哲学者の加藤尚武氏は、「法の言葉で歴史の論理を語るなら、まず歴史は伝聞証拠の世界である。
伝聞に伝聞を積み重ねて妥当な推理によって真理を発見するのが歴史の方法である。」と述べています。
 そこで、私が信頼する伝聞によりますと日本列島が陸続きだった時代に、渡来した新人の渡来経路は4つの経路が考えられます。これらの新人が混血し、生活環境の変化により現日本人になったと考えられます。

 (1) 南洋経路
 太平洋の島々、ポリネシア、ミクロネシア、メラネシアから、日本列島へはいってくる道です。わたしは、日本列島が陸続きであった時代にこのルートでやってきたのが、現日本人のルーツではないかと考えます。縄文土器の特色とする立体的な渦文の飾りは、汎太平洋的文化のあらわれです。また、縄文その後も、日本の近海には沖縄をへて日本海へ流れる対馬海流と、日本列島の東側を北上する日本海流、すなわち黒潮の二つがある。この二つの海流にのって、南方の文化が日本に漂着してます。時代にとくに発達した貝塚や、漁撈文化的要素が、この方面からはいったことは間違いありません。抜歯、文身、洗骨葬などの凧俗、イザナギ・イザナミ二神や、天照大神の神話、妻訪(つまどい)婚などにみられる母系制社会、その他言語や体質にも、東南アジアとの関係が指摘されています。言語学者の大野晋は、縄文人の言葉は南洋語であったと言っています。
 
 (2) 北方経路
 これは、シベリアや沿海州の民族や文化がはいってくる路です。旧石器時代後期の人類が、日本へ移住してきたのは、洪積世の最終氷期には、樺太、北海道、本州が陸続きで、大陸と接しており、この陸橋をとおってきたとが考えられます。これは人類が旧大陸から新大陸へ移動した大移動の一分枝とみられています。
 斉明紀に阿倍比羅夫が征伐した粛慎は、北方の異族であです。これが沿海州あたりにいたツングース族であるとか、樺太のチュグチ族であるとか、あるいは蝦夷であるなどの異説がありますが、シベリアの諸民族が渡来する場合、この経路によるか、あるいは、日本海をまっすぐ渡ってきたのでしょう。日本神話には、シベリア諸族の神話と似たものがあります。

 (3) 朝鮮経路
 これは、洪積世の海道期に対馬陸橋ができたときは、旧石器時代人でも自由に交通ができ、満蒙、シベリアをふくめて、北ユーラシア系の諸民族の流入が、この経路を本道にしていた。朝鮮半島の植民地を通じて、華北の文化もはいってきた。しかし、アルタイ系語族との関係が結ばれたのが、この経路である点に注目する必要があります。天孫降臨神話や神武東征物語、三輪山伝説などが、北アジアの神話とつよい類似性を示していおり、さらに、金属文化、仏教文化なども、ここを通ってはいってきている。体質人類学上、畿内人と北ユーラシア系の諸民族との類似性はとくに強く、大和国家成立当初、倭国と任那、新羅、百済との政泊的交渉がとくに盛んであり、帰化人も多く、この経路ではいっている。遺伝学的には、朝鮮族より東南アジアとの関連が強い。

 (4) 東シナ海経路
 中国の東方海岸、すなわち、北の徐淮地区から南の揚子江河口に至るあたりから、海を渡ってくる道は、日本と中国を結ぶ最短距離にあたり、イネの道として、最も有力な経路です。日本と華南との関係は、血液型では、日本人は湖南型に属し、遺伝子も人類学においてもいわれているO頭型の比較では、中国南部人が最も日本人に近いといわれています。
『親志倭人伝』には、倭国が会稽・東冶の東にあったと記している。会稽.東冶は越(えつ)の地、いまの逝江・福建省である。倭人の風俗として、文身(いれずみ)し、魚蛤を捕食し、貫頭衣を着るなどがあげられているが、南蛮の国といわれた呉・越の人に、断髪、文身、抜歯、貫頭衣などの特徴があって、倭人の周とよく似ていることが指摘される。当時の中国人には、倭国を呉・越から近く、蛮夷の一つとする見方があったのも、両地域の間に接触があったからであろう。その点で思いおこされるのは、『史記』や『漢書』にでてくる徐福の話である。
 徐福は秦の頃にいた山東琅邪の方士である。始皇帝の命により、童男.童女各三千人をひきいて、五穀の種子や百工をもって、長生不死の発を求めて船出したが、東海のある島に至って、遂に帰らなかった。唐代の地理書『括地志』によると、その島は亶洲(たんしゆう)といって、東海中にあり、徐福の子孫はそこで栄えて数万家になった。また、その島の人の中に会稽に来て貿易するものがあったという。この亶洲は琅邪を去ること万里のところにあるとも記されている。
 この亶洲に.ついては、台湾とも沖縄とも日本であるともいわれている。原田淑人は、衛挺士の説をひいて、日本であるといっている。亶の「タン」という音は、天武紀の多禰(タネ)から生じた名称であるとして、種子島およびその周囲の地域、すなわち九州南部から薩南諸島を一括した位置にもっていくのが、最も自然であろうという説を唱えている人もいる。