そもそも靖國神社とは何か

一言でいえば、明治維新からアジア太平洋戦争での戦没者を英霊として祀っている神社。日本の軍人・軍属を主な祭神として祀っている。民間人は合祀されていない

 

幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり、1853年のペリー来航以降の日本国内外の事変・戦争等(すなわち、戊辰戦争・明治維新から大東亜戦争まで)、国事に殉じた軍人・軍属等の戦没者らを「英霊」と称して祀り、その柱[1]数は約247万である。そのうちアジア太平洋戦争での合祀者が約213万と、合祀者全体の86%を占めている(知りたい靖国)。


[1] 柱:柱(はしら)は神を数える単位。

 

所在地は、東京都千代田区九段北3丁目。立地的に、上智大学や法政大学市ヶ谷キャンパスの学生は毎日参拝することができる。

 

歴史概要

大村益次郎が東京に招魂社[2]を創建することを献策し、明治天皇の勅許を受け、1869年(明治2年)、「東京招魂社」という社号で創建される。その約10年後の1879年、現在の社号「靖國神社」に改称された。(社号の正しい表記は、「靖国神社」ではなく、「靖國神社」である。)

 

1946年、政教分離の推進により、国の管理を離れて東京都知事の認証により単立宗教法人となった。単立神社として神社本庁との包括関係には属していないが、密接な協調関係にある。


[2] 招魂社:明治維新以降から国家のために殉難した英霊を奉祀した各地の神社。日本初の招魂社は山口県下関市にある。

 

 

戦後の靖國神社をめぐっては、大きく2つの論争テーマがある。

 

戦後を2つに切るならば、まず前半では「靖國神社法案」が問題となった。一言でいえば、靖國神社を戦前のように国家護持の形態にしようとするものである。合祀にかかる費用を「国が助成できないか」という意見が国会内で出るようになる。結局、合祀費用はこの先も民間の募金でまかなわれたが、国の殉難者を祀る行事に国が関与・助成できないことに、一部議員や日本遺族会から不満が噴出していた。

結局、5回に渡る法案提出があったが、全て廃案となり、実現はしなかった。

 

後半の問題が、現在でも問題となっている「首相の参拝」である。

三木首相が終戦記念日に参拝し、「私的参拝」と強調したが、それまであまり問題とされなかった国家機関員(公人)の参拝が、世論の激しい賛否にさらされた事件であった。

 

1979年4月、靖國神社にA級戦犯[3]が「昭和殉難者」として、ひそかに合祀されていたと報じられる。合祀されていたのは、およそ半年前の10月17日のことであった(=ただちに表沙汰にはならなかった)。このA級戦犯の合祀が大きな問題となり、日本遺族会からも、その分祀論が提起されるなど議論が多様化・複雑化している。

 

このA級戦犯をめぐっては、1988年に昭和天皇が合祀について強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝はしていない」などと語っていたとされるメモが、当時の宮内庁長官の手帳に残されていたことがわかった。(毎日新聞2006.7.20)

 


[3] A級戦犯とは、東京裁判で「平和に対する罪」、すなわち侵略戦争を指導した罪に問われ有罪とされた25名のことである。このうち、絞首刑判決を受け刑死した東条英機ほか7名、服役中病死した平沼騏一郎ほか5名、公判中病死した松岡洋右ほか2名の計14名分の御霊がひそかに合祀されていたのである。なぜ、合祀と報道に半年間の空白期間があったのか。私は、ある程度既成事実化することによって、批判のトーンを少しでも低下させようとする意図があったのではないかと考えている。

 

補足

内部組織としては、祭務部、総務部、遊就館部などの部署があり、それらを統括するのが宮司(ぐうじ)である。また、権宮司が宮司を補佐する。
 
敷地内には、社号標、慰霊の泉、大村益次郎像、母の像、軍犬慰霊像、戦没馬慰霊像、鳩魂像(伝書バト)、パール判事顕彰碑、遊就館、特攻勇士の像、能楽堂などがある。
 

8月15日は終戦記念日であるが、それ自体は神社の儀式とは無関係なために、神社としての公式な祭事・行事は行わない。拝殿に掲げる幕も通常時の白色のままである。しかし、戦没者の遺族、戦友、「みんなで靖國神社に参拝する国会議員の会」[4]に所属する政治家、さらに全国からの靖國神社を支持・支援する者の参拝[5]があり、年間を通して最も多くの参拝者が集う日となっている[6]

 

[4] 「みんなで靖國神社に参拝する国会議員の会」:1981年に設立された日本の超党派の議員連盟。日本遺族会を中心として、国会議員の靖國神社参拝を念願する団体も支援している。著名な所属議員としては、安倍晋三、小沢一郎、高市早苗、稲田朋美、石破茂、甘利明、谷垣禎一、渡辺喜美などなどがいる。

[5]参拝:参拝は神道の作法で行われる。通常の参拝は、鳥居をくぐり、手水舎の手水で清め、拝殿前で二拝二拍手一拝をする。正式参拝は複雑なので省略御免。

[6] 反対派やメディアの取材陣も数多く訪れるため、厳重な警備体制が敷かれる。

遊就館

境内に併設されている、靖國神社遊就館部が管理・運営[7]する博物館。合祀された英霊の遺品や資料、戦争で使用された兵器などを収蔵・展示している。収蔵品は約10万点。

ある者は、この博物館で日本人の精神性や、日本が目指したものに共感・涙し、ある者は、これが過去の日本の侵略戦争を「アジア解放のための戦いだった」と美化している、として批判する。日本初の軍事博物館とされる。

 

[7] 管理・運営:内部組織であるから、別物だという意見は間違っており、遊就館が靖國神社の戦争観を表現・発信しているということができる。

備考

・最重要の祭儀である例祭として、春季例大祭と秋季例大祭がある。

・6時に開門し、19時に閉門する。

・境内は都内有数の桜の名所として知られる他、大鳥居が東側に向いている数少ない神社のひとつである。

 

靖國をめぐる問題

●追悼か顕彰か 靖國の性格――――――――遺族感情の問題に絡んで

靖國の論理は戦死を悲しむことを本質とするのではなく、その悲しみを正反対の喜びに転換させようとするものである。靖國の言説は、戦死の美化、顕彰のレトリックに満ちている。

戦死者を出した遺族の感情は、ただの人間としてのかぎりでは悲しみでしかありえないだろう。ところが、その悲しみが国家的儀式を経ることによって、一転して喜びに転化してしまう。悲しみから喜びへ。不幸から幸福へ。まるで錬金術によるかの様に、「遺族感情」が180度逆のものに変わってしまうのである(感情の錬金術)。

靖國の祀りは本質的に、悲しみや痛みの共有ではなく、すなわち「追悼」や「哀悼」ではなく、戦死を賞賛し、美化し、功績とし、後に続くべき模範とすること、すなわち「顕彰」である。靖國神社はこの意味で、決して戦没者の「追悼」施設ではなく、「顕彰」施設であると言わなければならない。』(靖国問題)

 

<一言で云えば>

⇒戦時において、靖國神社という施設は、「靖國に祀られることは名誉なこと」として戦死を称え、戦争・軍国主義・天皇崇拝を強化・推し進める機能を果たした。戦死者の遺族は「悲しみ」の感情を抑えて、或いは転換させられて、戦争に協力をさせられたのである。

 

靖國問題をめぐっては、さまざまな感情が入り乱れて存在している。遺族の感情ですら決して一様ではなく多様である。これらの「遺族感情」の多様性を踏まえた上で、靖國問題の根底にあるのは、戦死した家族が靖國神社に合祀されるのを喜び肯定する遺族感情と、それを悲しみ拒否する遺族感情とのあいだの深い断絶である。


●A級戦犯の問題――――――歴史認識、戦争責任の問題に絡んで
<A級戦犯合祀がなぜ問題となるのか>
⇒彼らを「英霊」=「護国の神」として顕彰することが、彼らが指導した戦争を侵略戦争ではなく「正しい戦争」として正当化することにつながる、と考えられるから。
 

<どうすればいいのか――――――分祀論>

解決の道として、よくA級戦犯分祀論が出される。「分祀」とは、いったん合祀された霊魂を分割して、一部を他所に祀ること。中曽根康弘氏や小沢一郎氏、古賀誠氏らがこの有名な論者である。

A級戦犯の分祀が唱えられ、過去、実際にその動きがあった。しかし、靖國神社は明確に(断固として)拒否した。

(松平宮司曰く)「神社には「座」というものがある。神様の座る座布団のことです。靖國神社は他の神社と異なり「座」が一つしかない。250万柱の霊が一つの同じ座ぶとんに座っている。それを引き離すことはできません」

 

<分祀実現をめぐって押さえておきたい二つの点>

①これまでの経緯を見れば、靖國神社の姿勢が変化することはほぼなく、分祀の実現は困難と言わざるを得ない。

②靖國神社が同意しないのに、政府が政治的合理性によって分祀を強制すれば、これもまた政教分離原則に違反することになる。

 

<分祀論に対する批判>

そもそも分祀論は、戦争責任の矮小化につながらないか?悪いのはA級戦犯だけで、昭和天皇や一般兵士等の責任が逆に見えなくなるのではないか(=A級戦犯をスケープゴート(犠牲の山羊)にすることによる免責はいけない)。臣民の精神支配・動員機能を果たした「戦争神社」たる靖國そのもの責任も矮小化されないか?

 

<いやそもそも>

A級戦犯論は結局東京裁判論になるという意見もある。例えば石原藤夫氏は、東京裁判には大きく3つの問題があると主張する。

 ・事後法禁止の原則に違反している

 ・罪刑法定主義の原則に違反している

 ・裁判官は公正な立場でなければならないという原則に違反している

 

 東京裁判に従事した裁判官や検察官には、後年、この裁判のことを後悔しているものがいる(マッカーサー元帥、ウエッブ裁判長など)

 

●宗教の問題――――――――――――――――政教分離に絡んで

<遺族感情の無視という問題>

いわゆる靖國派には、靖國神社こそ戦没者追悼の中心施設だという者がいる。

「追悼」とは後から追って悼むことであるが、真っ先に死者を悼む権利を有するものは、遺族ではないか?過去、合祀絶止を求めた遺族がいる[8]。しかし靖國神社は、そのような遺族の願いに応えることはなかった。

 

[8] 1968年、プロテスタントの角田三郎牧師は、遺族として明治以来初めて、靖國神社にふたりの兄が祀られているのを取り消してほしいと「霊璽簿抹消要求」を行ったが、拒否された。その後も「キリスト者遺族の会」として合祀絶止を求めてきたが、靖國神社は拒否し続けている。角田牧師に対する靖國神社の回答は「当神社御創建の趣旨及び伝統に鑑み到底御申出に沿うことは出来ません」というものだった。

 

天皇の意志により戦死者の合祀は行われたのであり、遺族の意志にかかわりなく行われたのであるから抹消をすることはできない」(池田権宮司)

 

⇒靖國の論理によれば、合祀はもっぱら「天皇の意志」により行われたものであるから、いったん合祀されたものは、A級戦犯であろうと[9]、旧植民地出身者であろうと、誰であろうと、遺族が望んでも決して取り下げることはできない。遺族の感情は無関係であり、完全に無視するということになる。

 

⇒そうならば、無視されているのは合祀絶止を求める遺族の意志・感情だけではない。戦死した家族の合祀を求める遺族の意志・感情も、いわばたまたま「天皇の意志」に合致しているにすぎない。本質的には無視されていることに変わりはないのだ。

 

[9] 但し既出の通り、A級戦犯合祀に昭和天皇は不快感を示し、その後靖國に親拝はしていないという事実があるので、この筆者の記述に「?」と思った。

 

<政教分離の問題>

政教分離[10]とは何か

⇒国家の非宗教性ないし宗教的中立性を維持する制度。戦前の靖國神社を筆頭とする神社神道の国教化と、その弊害に対する反省から憲法に取り入れられた。

 

ポイント:

今まで首相の靖国参拝に関して「合憲」と認定して確定した判決はひとつも存在しない。逆に、岩手靖國訴訟の仙台高裁判決や、小泉靖國参拝訴訟の福岡地裁判決が、明確に「違憲」と認定し、中曽根靖國参拝訴訟の大阪高裁判決も「違憲の疑い」と認定して確定している。

 

[10] 最高裁は、違憲審査基準としては、国の「行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような」場合に違憲となるとする、目的効果基準と呼ばれる比較的緩やかな基準を採用している。(津地鎮祭訴訟)しかし近年は、国家神道の反省から設けられた政教分離の意義を見直し、より厳格な分離を要求すべきではないかという意見も多くなってきている。

 

●アジア諸国との関係、とりわけ中国・韓国―――靖國と国際関係

<戦後歴代首相の靖國参拝状況>

東久邇宮稔彦 1回

幣原喜重郎  2回

片山・芦田  なし

吉田茂    3回

鳩山・石橋  なし

岸信介(A級戦犯容疑者。A級戦犯処刑後、釈放された) 2回

池田勇人  5回

佐藤栄作  11回

田中角栄  6回

三木武夫  3回←初めて終戦記念日に参拝 政教分離をめぐり「公」か「私」かと「国内的問題」となった。

福田赳夫  4回

大平正芳  3回

鈴木善幸  8回

中曽根康弘 10回

竹下~村山 なし

橋本龍太郎 1回

小渕・森  なし

小泉純一郎 6回 ←国内的にも国際的にも大きく取り上げられた

 

<キーワードは、「A級戦犯」「公式」>

中国や韓国、それにアジア諸国が日本の首相による靖國参拝にいっせいに批判の声を上げたのは、1985年8月15日の中曽根首相による「公式参拝[11]」のときだった。それ以前にも戦後歴代首相によって58回参拝が行われていたが、特に諸外国からの批判はなかった。


[11] 本人が「内閣総理大臣の資格で参拝した。いわゆる公式参拝である」と明言した。

 

中国や韓国が首相による靖國参拝に反対する理由は、中曽根首相による「公式参拝」以来一貫している。つまり、「A級戦犯が祀られている神社に首相が参拝するのは、戦争で多大な被害を受けたアジア各国の人々の心を傷つけるもの」ということだ。

1985年の中曽根参拝がそれまでと異なるのは、「公式参拝」だったという点。「A級戦犯を祀っている靖國」を「公式参拝」することが中国や韓国にとって看過できぬ大きな理由なのだろう[14]

 

※もちろん、過去の戦争に基づいての批判という側面はあるだろうが、個人的に、やはり靖國批判を外交カードとして使用している可能性も多分にあるとは思っている。

 

[12] 橋本首相が1996年の誕生日に「私的立場」で参拝した時にも中国政府は不快感を示したが、厳しい批判にはならなかった。

 

<中韓以外の国はどうだろうか?>

⇒東南アジアの反応は、やはり「低調」。中韓とは温度差がある。

 

⇒台湾は複雑なスタンス。批判的な「古い台湾」と支持する「新しい台湾」(李登輝氏など)。

 

昨年末、12月26日の安倍晋三首相による突然の電撃参拝には、中国、韓国は当然としてロシア、シンガポール、アメリカ(失望した)などから批判があった。

 

(安部内閣になって一番の特徴は、靖國問題が米国にも波及していること;吉田裕一橋大学大学院教授(歴史学))

 

参拝が国際的な波紋を呼ぶのは間違いない事態になっている。

 

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参考:

・ウィキペディア「靖国神社」

・ウィキペディア「靖国神社問題」

・『靖国問題』(高橋哲也/ちくま新書/2005)

・『ニッポン人なら読んでおきたい靖国神社の本』(別冊宝島編集部編/宝島社文庫/2006)

・『靖國神社一問一答』(石原藤夫/展転社/平成14年)

・『もっと知りたい靖国神社』大月書店

・毎日新聞