松竹氏除名問題に関わっていくつか投稿しましたが、改めて整理してみました。
まず、除名という処分を行うにしては説明不足であり、納得のいくものではありません。
同時に、規約や党組織の問題点について、以前から考えていた点が湧き出てくることにもなりました(中央委員会に手紙を出そうと思いつつ、なんだかんだで後回しにしてしまっていたのです)。
私の意見を記します。
■分派の定義を明らかにすべき
規約上、分派の定義が非常に曖昧であるとの問題を以前から感じていました。
第三条
党は、党員の自発的な意思によって結ばれた自由な結社であり、民主集中制を組織の原則とする。その基本は、つぎのとおりである。
(四) 党内に派閥・分派はつくらない。
禁止規範にも関わらず、その対象が何かが示されていないのは、上級機関による恣意的な運用が可能との疑念を生みます。
草加市議団の件で党員14名が連名で再調査請求を出したところ、「特定の見解を持った人たちが支部の範囲を超えて連名で意見書や質問書を作ることは、分派につながるものとして認めていません」との文書回答が返されました。
一方で、支部や地域を超えて一緒に党機関へ意見等をおこなった結果、意見が認められたという事例も存在すると聞いています。
なぜ今回、鈴木氏に本の出版を急ぐことを働きかけたことが分派にあたるのでしょうか。松竹氏と鈴木氏は内容的には一切相談をしていないとのことです。分派というのは「恒常的なつながり」という語感がありますが、編集者としての立場でありながら喫茶店で1時間ばかり話した程度で認められるものなのでしょうか。
さらに、2月8日『党攻撃とかく乱の宣言』でも、「分派活動と批判しているのは、出版それ自体ではなく、鈴木氏との関係」とされていますが、しかし、分派の仲間とされた鈴木氏に対しては赤旗紙上でも批判記事は出されていません。
処分は検討中でありまだ検討段階とは思いますが、批判記事すらないことは、比例原則に照らして松竹氏除名の不自然さを強めています。
----
2月8日『党攻撃とかく乱の宣言』について補足します。
除名処分を「不服」として党大会に「再審査」を求めるとし、それを実行するために、党内に自らの同調者をつのることを宣言していることについて、「党内に松竹氏に同調する分派をつくるという攻撃とかく乱」などと書かれています。
松竹氏の主張に同調するか否かと、除名処分撤回を求めるか否かは、別の問題です。除名撤回を求める党員は、松竹氏に同調する分派と認定されるのでしょうか。「党内に自らの同調者をつのると言い放つ」と決めつけるような書き方をするのでは、党内での除名撤回を求める声を委縮させかねません。
少なくとも、白紙委任同然の解釈権を上級機関が握っている現状は党内議論の委縮を招くものと考えています。来年の党大会での規約の見直しを求めます。
■除名と除籍の位置づけを明確化すべき
そもそもとして、規約11条と49条が不明瞭な規定です。
49条だと規律違反としての除籍はありませんが、11条だと規律違反で除籍があるように読めます。
第十一条
党組織は、第四条に定める党員の資格を明白に失った党員、あるいはいちじるしく反社会的な行為によって、党への信頼をそこなった党員は、慎重に調査、審査のうえ、除籍することができる。除籍にあたっては、本人と協議する。党組織の努力にもかかわらず協議が不可能な場合は、おこなわなくてもよい。除籍は、一級上の指導機関の承認をうける
第四十九条
規律違反の処分は、事実にもとづいて慎重におこなわなくてはならない。
処分は、警告、権利(部分または全面)停止、機関からの罷免、除名にわける。
今回、資格の停止という措置もあり得たところ、いきなり除名という最高の処分をとられました。
過去の規約の運用例を見れば、強制わいせつや、数年間パワハラをした人でも除名どころか除籍にもなっていません。処分の基準はどうなっているのでしょうか。個々の事例の詳細な公表は難しいにしても、基準は示すべきです。
11条の過去の運用事例としては、党外の出版物で、党を批判したり、北朝鮮問題で党とは異なる見解を公表した元平壌特派員の萩原さんの件がありますが、除名処分にはなっていません。
松竹氏のこれまでの著作やブログに対して警告は一切なかったのでしょうか。規約に基づいて処分するのであれば、なおさら慎重に行うべきではなかったのでしょうか。それについて触れられていないのが、問題を大きくしているひとつの要因と思います。
■「結社の自由」とは報道からの自由を意味しない
2月9日の赤旗社説では、党と党員の関係のあり方にとどまらず、党と大手メディアの関係にも踏み込んで言及しています。
この社説で、朝日新聞など大手メディアの党批判は、日本共産党の結社の自由を侵害するものだと強く反撃しています。
結社の自由について党が引用しているのは、1988年の袴田事件最高裁判決です。袴田事件とは、除名処分となった党幹部袴田氏が被告、党が原告となって起きた民事訴訟です。
政党内部の行為について、司法審査は及ぶか?が争点となりました。『政党の内部的自律権に属する行為については、本来的には自律的解決に求めるもので、一般市民法秩序と直接の関係を有さない内部的な問題にとどまる限りは、裁判所の審判権は及ばない』というのが判旨です。
仮に除名処分を不服として訴訟が提起された時にこれを持ち出すのは自然ですが、メディアに対して憲法上の権利侵害とまでいうのは論理の飛躍が過ぎるのではないでしょうか?赤旗の論説は無理筋というべきでしょう。当該社説の後、赤旗に憲法学者の小林節氏も寄稿していますが、特に新しい論点はなく、違和感は変わりありませんでした。
結社の自由とは報道からの自由を意味しません。党首の選び方や安保政策をめぐる党員の議論を党内で完結させている制度設計が党勢の衰退に繋がっている、とメディアが論評するのは言論・報道の自由の範囲内です。悪意に基づく反共勢力の攻撃だと非難する対応は、世間からすれば異様な光景と受け止められるでしょう。
また、善意と悪意で対応を分ける、と志位委員長は会見で発言されておりますが、「何をもって善意とするか」で受け止め方が大きく分かれるものですから、混乱を招く対応だったと思います。
■除名を撤回し、上記に対する問題整理を行うことが必要
確かに、党内で一度も意見を出すことなく、出版をし、記者会見まで開いて大々的にメディアも巻き込む松竹氏の手法は、規約を尊重した方法とは思えません。混乱を招くことはかなりのレベルで予見できたでしょうし、この点では党に理があると考えます。
しかし、党の対応は失敗でした。
都の青年学生部長は、「松竹氏の規約違反は社則を破ったのと同じ。だから処分は当然」と投稿していました。不当な扱いに苦しんでいる労働者もいると思いますし、ケースバイケースでしょう。具体的にどの程度の違反なのか?何回注意したのか?という説明がなければ、それはタダの不当解雇と思われても仕方ないように思います。
共産党内部のルールと運用が特異な例ではないことを示すために民間企業の例を出すことは良いと思いますが、だから一概に問題ないといえるかというとそうではありません。常に組織のあり方を自己検討しなければならない政党にあって、企業のルールと変わらないというのは、水準の低い議論だと言わざるを得ません。
私は、学生時代に松竹氏の著作を読んで琴線が触れ、もともと9条護憲派ではないという点はありますが、松竹氏をなんとしても擁護したいから今回の処分に異論を言っているわけではありません。規約の運用が粗雑で、物事を整理せず感情的に行っているようにしか見えないことが、内外に不信感を抱かせているのではないか?というのが問題意識です。
個々の党員が「こういう事情があるから彼は除名になっても当然だ/仕方ないのだ」と内に閉じた理解で納得するのは構いません。しかし、粗雑な運用を許すことは党組織の未来を明るくするものではありません。党組織の問題は恒常的な問題ですから、「統一地方選が近づいているのだし、このような問題に時間をとるべきではない」といっている場合ではありません。
なお、規約の不明瞭かつ一貫性に欠ける運用は、今回が初めてではないことが伏線としてありました。最近の事例でいえば、件の草加市議団の問題の際、埼玉の東部南地区委員会は、「党規約は、会議の場以外の意見は認めていない」と述べています。詳細は下記のリンク等で読むことができます。
共産党は元草加市委員長への障がい者差別を謝罪すべき - 草加市議・佐藤のりかず公式ブログ (goo.ne.jp)
今回、私は中央委員会に対して意見と質問のメールを送ったのですが、この解釈によれば、そのメールも規約違反ということになり、5条の解釈として全くあり得ないものです。
このように、いったん立ち止まって整理・改善すべき問題が多いのではないでしょうか?
私は、長年にわたって党を引っ張ってきた党幹部の努力には敬意を表したいと思います。特に野党共闘については何度心を砕かれたことだろうと思います。
しかし今回の一連の対応は、それを打ち消してしまうほどに冷静さを失ったものであるように見えます。今からでも除名を撤回し、党内議論をする姿勢を示していただきたいと思います。
■党内議論の活性化のため、異論を共有し、受容する組織改革が必要
松竹氏除名の前から考えていたことですが、異論が党内でシェアされる文化の醸成が必要と思っています。
産経新聞などが社説で書いている「一般党員は絶対服従を強いられ」るという批判は的外れですが、「異論を共有し、受容する文化」は弱いのではないでしょうか。個々の党員は、党内で異論を表明する権利と機会はありますが、その異論が全党に共有される機会は党大会前の赤旗くらいしかありません。
個人として中央委員会等に電話やメール、手紙で批判的意見を伝えても、そうした無数の意見に一つ一つ誠実に答える時間が物理的に確保できるとは思えません。実際、中央に意見書を出しても回答が来ない、という声はネットに見受けられます。
いわば、「家の中では体制批判の発言をするのは自由であるし、首相官邸や県庁に直訴することもできる。しかし、他の市町村の人がどう考えているのかは(県知事や市長でもない限り)知ることができない」、このような状態ではないでしょうか。健全ではないかと存じます。もちろん、民主集中制は政党内部の規律であって、社会一般に適用するものではない、という見解は理解していますが、政党内部の制度設計としても問題があるのではないでしょうか。
では具体的にどのような方策があるのか、という点についてですが、
①赤旗紙面上に、党機関への意見コーナーを常設する
②多様な意見を取り入れるため、常任委員の非専従の割合を高める
というのが一例ですが、あると思います。
(①は以前から考えていたもので、②は松竹氏・鈴木氏の主張に賛同しました)
■個人としての意見であれば、党外でも発信して良い緩さがほしい
規約5条5項ではこのように書かれています。
第五条 党員の権利と義務は、つぎのとおりである。
(五) 党の諸決定を自覚的に実行する。決定に同意できない場合は、自分の意見を保留することができる。その場合も、その決定を実行する。党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない。
「党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない。」の「決定」とは何でしょうか?
党員である以上、自分で認めた綱領や規約、全国的な討議を経て決められた大会決定などは守る必要があるという点は問題ないかと思います。
松竹氏の過去ブログを読むと、兵庫で除籍になった元党員の方の話が書かれていました。曰く、留保した意見をどこかで個人の見解として明らかにした場合、民主集中制に反していて処分の対象になる、というのが地区委員会の見解だったそうです。
これをそのまま当てはめると、中国研究者の学者の党員が自分の見解を学会誌で公表するのも処分の対象になりますよね。しかも、党の中国共産党に対する評価も変わっているので、それに合わせて変えなければダメということになってしまいます。事実上、学問研究の自由はなくなるし、学者であることと両立できません。
よく、「日本共産党の党員は、全員が中央委員会など機関と同じことを言っている」などと言われがちです。これは、外部から見て、入党したいという魅力を感じてもらいにくいのではないでしょうか。
党見解と異なっていても個人としての意見と断れば問題ないような適度な「緩さ」があった方が良いのではと思います。
(もちろん、党の機密情報や、個人情報を公に晒すことはNGでしょう。)
時代背景としても、規約が最後に改定された2000年当時と違い、情報化社会になっています。党は未だにかなりの紙文化ですが、スマホをタップするだけで世界中に発信される時代であり、ルールとして既に形骸化しつつもあります。ここも次回の党大会で見直すべきところと考えます。
実際、地方議員のTwitterなどを見ると、党の公式見解とは異なる意見を述べている方がちらほらいらっしゃいます。今回の除名処分に対して抗議や、控え目に言っても疑問のツイートをしている議員もいます。
確かに党幹部にしてみれば、例えば常任幹部会で何かを決定する、そのあとに党員がいちいち異論を出してくるのは、正直面倒でしょう。難しい問題を最高幹部が熟慮して決定したのだから文句を言うな、という気持ちにもなります。
しかし、そこに落とし穴があります。異論を持つ党員によく投げられる言葉に、「党はサロンではない。いつまでも議論するのではなく、決定を実践しろ」と言うものがあります(青年分野ではほぼ聞かないが)。中には対応するに値しない水準の意見や、明らかな誹謗中傷、そもそも日本語として意味が通じないものだってある程度は出てくるでしょう。そういったものはスルーして良いと思いますが、しかし、異論を受け付けないというのでは、自らも入って活動したいと思える政党として受け入れられにくいのではないでしょうか。
組織改革を望みます。
■補足:分派禁止規定の合理性は下がっているのではないか
日本共産党の分派禁止規定は、50年問題で党が分裂した痛苦の経験に基づくものだと説明されます。
しかし当時と違い、現代において中共やロシアなど、外国勢力からの干渉を受ける事態はほぼ考えられません。逆に、党勢拡大を目指すのであれば、個々の政策において意見の違いが出ることは当然であり、党内での政策グループの存在を認めることはプラスに働くのではないでしょうか。
私は党首公選をこれまで考えたことはなく、また、現在はどちらかといえば否定的な立場ですが、党内派閥ができることは、必ずしも悪いこととは言えないのではないでしょうか。自民党が安倍一強になったとき、私は以前の多様性のある自民党を評価していたものです。
■補足2:選挙と党勢について
日本共産党の選挙総括では毎回といって良いほど、「自力が足りない」という総括がなされます。これはその通りでしょうけども、得票結果は党勢のみではかれるものではありません。これは他党を見てもそうです。
長期的に見れば党勢の強弱は得票結果と関係しますが、短期的に見れば、その時々の情勢、候補者の組み合わせ、選挙宣伝のマーケティング戦略も大きな変数です。党勢が後退していても選挙で前進することもあれば、その逆もまた起こりえるものと思います。
日本共産党は選挙結果の分析において、原因を情勢に求めすぎる傾向がありますが、党のマーケティング力が低いことも課題と思います。維新の伸長の背景には、電通や吉本がいると言われています。なにも維新の真似をする必要はありませんが、広報を専門的に強化する取り組みが急務と思います。