6月11日・12日に、八王子セミナーハウスで開催された合宿「憲法を学問する」に参加してきました。

 

講師の先生は、樋口陽一、石川健治、蟻川恒正、宍戸常寿、木村草太の各氏という、豪華な布陣です。

 

日程は大きく分けて、全体会と分科会がありました。

抽選で僕は、第2分科会、蟻川先生の「個人の尊厳」になりました。拙文ながら分科会の話内容を少し再現したいと思います。
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日本国憲法の至高の価値とされる個人の尊厳とは何か。
話はまず個人の析出から始まります。

 

中世ヨーロッパは、社会が社団的に編成されていました。社会の基本単位は個人ではなく社団であり、個人は社団の中にしかありませんでした。社団は中間団体とも呼ばれますが、ギルドや学者の集団、また聖職者といった身分集団のことです。

 

さて市民革命が勃発しました。王が殺されることはその象徴的な出来事であって、市民革命の本質は、王を含む社会構造を破壊することと説明されます。

 

革命の結果として、中間団体が否認され、国家と個人の二極構造となります。ここで個人が析出されるわけですが、同時に問題となるのは、それまで多くの社団が分有していた権力を、国家が一手に掌握することです(集権化)。これに対峙する丸裸の個人の理論武装として「個人の尊厳」がポツポツと出てきました。ここまではよく言われる話かもしれませんが、面白いのはここからです。

 

樋口先生はどちらかというと「個人」の方を強調されますが、蟻川先生は「尊厳」を強調します。尊厳とは何か。
かつて「尊厳」とは、高い身分と不可分に結びついたものでした。
英国の法学者メーンの「身分から契約へ」という言葉もありますが、近代に入って身分はなくなったのだと一般に考えられていますし、僕も疑うことなくそう捉えてきました。

 

蟻川先生は、身分がなくなった近代においては、「尊厳」は観念し得ないと主張します。身分がなくなったのでなく、「皆が高い身分になった」と考えるのです。
貧困が拡大しているので大雑把な説明になると前置きした上で、マリーアントワネット当時とは異なり、今はケーキを皆が食べられる様になっている、というのがひとつの説明です。

 

身分の撤廃か、それとも高い身分の普遍化か。後者に立脚した時、次に「高い身分とは何か?」という問いが立てられます。
蟻川教授は、高い身分の者とは義務を履行する人だと考えます。
「朕は国家なり」には2つの意味があると言います。
①絶対君主は自らの思うままに国を動かすことができる、平たく言うと、横暴なわがままができる、という意味。②高位の人は責任重大。公共のことを慮り、一般人よりも強い義務を負わなければならない、という意味。

 

後者の意味に着目したとすると、高い身分の普遍化とは、すなわち義務、ノブレスオブリージュの普遍化と考えられます。
しかし、この様に論を繋げていくと、(僕も聞いていて思ったのですが)一歩間違えれば、やたらと国民の義務を強調する反動勢力にエールを送ることになりかねません。権理主張をするためには義務を果たさなければならない、という例のアレです。

 

蟻川先生としては、権理とはそれ自体義務であるとし、その点で権理と義務を別立てで考える反動勢力とは異なると言います。
憲法§97を読むと、「侵すことのできない永久の権利として信託された」とあります。権理は通常放棄できますが、憲法上のそれは不可能と解され、この点で§97は非常に重要であり、§11よりも根底的です。

 

また「信託」には3つの主体が必要です。まず委託者。天賦人権説からするとこれは天ということになるでしょう。次に受託者=現在の国民。そして受益者=将来の国民と説明されます。現在の国民にはもちろん権理保障がされますが、その権理は天からの預かり物として決して放棄できず、次の世代、そのまた次の世代(将来の国民)へと引き継いでいく義務を託されているわけです。

 

ところで§11と言えば、多くの憲法学者にとって評判が悪い条文。戦後初期の最高裁判決は、公共の福祉撫で斬り判決と呼ばれる様に、権理主張を抑えてきたとのことで、公共の福祉による権理制約を学会は苦々しく思っていたと。※もちろん公共の福祉とは何かというアポリアがあります。

 

じゃあそれなら同じく公共の福祉を規定した§13後段と§12は?
§13について言えば、1970年頃までの憲法学説は、これを法的効力なき訓示規定と解釈してきました。しかし70年代になり、新しい人権が主張され始めるなかで、この根拠を§13に求めようと変容します。

 

一方で§12は今日でも評判が悪く、訓示規定と解するのが多数派な様です。ところが、この間の市民運動で憲法学者にとって意外なことが起きた。Sealdsが§12の「不断の努力」を前面に打ち出したことです。Sealdsの主要メンバーには法学部生がいないので、憲法を虚心坦懐に読み、積極的な意味を見出すことができたのではないかと蟻川先生は話していました。(法学部生であるはずの)僕にはこのことが逆に驚きだったわけですが(苦笑い)。

 

閑話休題的に巻き戻すと、義務としていかなるものが観念されるか、ということになってきます。
蟻川教授は、次の4つを提示しました。
大学や会社、地域団体など、人には必ず多重的な帰属社会があるわけですが、人権を主張するときには、そうした中間団体の利害に絡め取られず、公共の福祉に配慮し公的に行動しなければならない。

まず①公共の事柄(res publica)に参与する義務が基礎として存在します。ここから、②公共的理性(public reason)を行使する義務が成り立ちます。私的な良心、観念でなく、公的な理性に基づいて公共的討議をする義務です。
そして、日本において憲法こそが最も公共的理性を凝集したものであり、憲法を解釈することは公共的理性を行使することであると考えるために、③憲法を解釈する義務が出てきます。そして④憲法を尊重し擁護する義務、があるのではないか、という提起です。
そして、①〜④は、原則として解除できないが、例外としてなら、どの様な原因に基づき、どこまで解除し得るか、ということが、駆け足で問題提起されました。短い時間の中で、参加者の中から意見が出される、という分科会になりました。
これについては先生の考えが理論的に滔々と述べられたというわけではないですし、割愛します。
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拙文なので伝わらないところもあるでしょうけど、皆さんも疑問に思う部分はあるかなと思います。僕も色々と考えるわけですが、とりあえず投稿が際限なく増殖していきそうだし、全くまとめられそうにないので、抑えます(笑)

 

限られた短時間の中でしたが、知的な旅のひとつの投げかけをして頂いたこと、発想が広がったことが良かったです。
全体会の方も、話し手の問題もあるとは思いますが、僕自身の理解力が足りなく、交されている話内容を掴むことができなかったことが結構悔しい。その分憲法を学ぼうという意欲を高めてくれた、良い機会でした。樋口先生の著作はじめ、きちんと読みたいなと。

 

閉会の挨拶で、樋口先生が「わかる前にわからなくする。迷わなければ学問でない」と仰ったのが印象的で、確かに共感しました。
自分の理論レベルが高いとは思えないですが、これからも理解しようという姿勢を持ちつつ、迷っていきたいと思います。その正確さと速度を高めたいです。

 

最後に、当駄文の表現ではあまり伝えられなかった蟻川先生の学問的思索に触れたいという方は、岩波書店刊『尊厳と身分』を読んでみると良いと思います。