3、名誉殺人の異様さ
この様な名誉殺人について、私は次の四つの点が特徴的だと思う。それは、殺害方法、加害者、殺害動機、そして人々の認識である。
まず一点目として、殺害方法が非常に残虐である。
銃殺による即死はまだしもであるが、その連射や火あぶり、絞殺、酸攻撃(アシッド・アタック)、頭部の切断には非常に強い殺意が感じられる。また、殺害までは至らなくとも、強姦、輪姦、身体部分の切断などがあり、これらは名誉殺人も包括する概念である名誉犯罪に含まれ、残虐性において殺人行為と本質的に同じだと言える。
例えば、パキスタンの小村に住むムフタール・マーイーは、一家を代表し有力農民一族のもとに謝罪に行ったところ、名誉輪姦された。
アフガニスタンのビビ・アイシャは16歳時に強制結婚させられ、逃亡したが、連れ戻され鼻や耳を削ぎ落とされた(DARKNESS)。また硫酸を顔面に浴びせられ、容姿を破壊されるという事例もあとを絶たないようである。
いずれも殺人に匹敵するほどの女性に対する抑圧、危害ということができ、言うまでもなくこれらの身体的のみならず、精神的にも及ぼされる悪影響ははかり知れない。また、そうした行為ののちに殺害を行うケースもあり、どれをとっても人権を著しく無視した行為であることは明らかだ。
二点目は、被害者の夫や兄弟、息子や親族など、近親者が加害者となっているということである。
この点について、『傷ついた身体、砕かれた心』で次の様に述べられている。「女性にとって例外なく、暴力の最大の脅威は“見知らぬ危険人物”ではなく、知り合いの男性である。その男性は、多くの場合、親族の男性や夫である。この問題が世界各国であまりに似通っていることこそ際立つ」。近親者ゆえに脅威という法則性がある。名誉殺人の問題においても、女性に近い者ほど、彼女の動向によって名誉が左右されるがため犯行に及びやすいということが言える。
ただし、殺害が家族をはじめとする近親者の手によるものだからといって、これを家庭内の問題とするのは誤りである。「男は、近隣住民や友人や家族から男として扱われるために女性を殺した。それゆえに、名誉の殺人を家庭内暴力と位置づけるのは間違っている。それは、内なる、社会的な暴力であり、家族の範疇を超える」とヨナルは述べている(P323)。
次の三点目、殺害動機についてだが、著しく倫理性に欠けている。
スアドの事例は、未婚のまま妊娠に至るというもので、これは日本においても性道徳的に批判される余地はあるだろうが、しかしそれによって本人ではなく男性や家族、地域の名誉を守るという目的によって、私刑が正当化されるのだろうか。他にも、男性と目を合わせた、話をして笑っていた、男児を産まないという理由で殺害された事例も報告されている。
そもそも、それらが「容疑」であったり、事実無根の噂であったりしても、殺害の動機になるという。疑いをかけられた女性は、自らを守る機会を与えられない。またこれは最悪のケースといえるが、レイプの場合でさえ加害男性ではなく被害女性の方に非難の目が向けられ、被害女性が更なる悲劇にあうことになる。
これらは人権ではなく、名誉に価値基準が置かれていることに起因する。
名誉殺人は人権を無視した不条理な因習であり、決して受け入れられるものではないとして、国際連合などの公的機関はもとよりアムネスティ・インターナショナルやヒューマン・ライツウォッチをはじめとする人権団体も非難声明を発表している(Wikipedia)。
もちろん、問題は簡単ではない。当事者である加害男性は、人権ではなく、名誉にあくまで至上の価値を置いている。このことは、事例③にて紹介したメフメト・サイトの件からもわかる。私たちが常識的に「加害者」だと考えるだろう男性は、むしろ自分たちのことを「被害者」だと考えているのだ。すなわち、不貞を働いた女性の方がむしろ加害者であり、彼女によって名誉が傷つけられた我々は「被害者」であるという、名誉至上主義が働いている。単に「加害者」、「被害者」とした場合解釈が真逆になるという事情があるがそういったものを考慮し、ここでは女性を殺害した側を「身体的な加害者」と敢えて念押しした形で表現することがある。この考え方の根本的な差異は極めて大きいと言えるのではないだろうか。
三点目と重なる部分もあるが最後の四点目は、「間違ったことをしたと思う実行犯は少なく、犯罪に直接関与していない親類たちもそうした見方を支持しているようだ」(ヨナルP9)とあるように、人々がこの因習に問題意識を抱いていないということである。
被害者たる女性の側からしては殴打されることや、ましてや殺害されることなど望んではいないだろうが、幼少期より差別や暴力が日常化してしまうとそれらにさえ問題意識が生まれてこない。
一方の加害者についてだが、「手を下した者は法で裁かれないばかりか、英雄扱いされることさえある」(スアドP312)といい、後者の様に敬服される様子は、これもまたメフメト・サイトの事例にもあった。
身体的な被害者は憐れまれず、180度逆の如く殺人犯は賞賛され、名誉を守った者として英雄視さえされる。名誉至上主義とそこに起因する、この罪の意識の欠如どころか暴力や殺人を道徳的に正当化してしまう風土、これが名誉殺人の大きな特質であり、解決に対する最大の壁ではないだろうか。
4、批判
価値観の大きな相違という問題はあれ、しかし「外」の立場からすれば動機が理解に苦しむ。また手段が残虐だとして人道的に強い批判対象になり、早期の改善、撤廃が望まれているのも明らかだ。
多くで強制結婚がなされているという点も人権侵害として指摘できる。本来的に結婚は相互の合意のもとでなされるべきことだが、「(強制結婚という)結婚形態の存在理由の一つは、家族内に資産を貯め置くというもの」(ヨナルP12)である。まさに女性の存在が軽んじられ、モノ扱いされている。
また、男性が、自身ではなく他者に名誉、尊厳の根拠を求めていること、他者からの評価や視線を非常に強く意識していることは、偏狭な精神であると言わざるを得ない。
この点について、ヨナルの取材を通して強烈に現れてきたこととして次の様に書かれている。
「女性の行いに左右される男たちの自己意識の脆さである。男たちのこの世での地位を高めるべきものは、同時にそれを破壊する力を持つのだ」(P12)。そして、それがいつ破壊されないかと「名誉を基礎とする文化に生きる男たちは、常に恐れ、疑い、怒っている」(同P13)。他者に極めて歪んだ依存の仕方をしている社会的な地位や精神的な安定の維持手段が正常とは考えられない。そして、殺人含めた暴力、虐待という手段によって名誉や尊厳を維持するという社会は不安定で、在り方として適切と考えることはできない。地域によって温度差はあるが、特にスアドの村では「そもそも男どうしの暴力もこの村でははるか昔から受け継がれてきた」(P89)といい、コミュニティの構成員が信頼関係を築けていないのではないか。
このように人道的に悖るものであるし、社会の在り方としても問題が大きい。ただ、こうしたコミュニティ、および名誉殺人という因習に対し、「時代錯誤」、「古い」という言葉を用いての批判を見うけるが、私は適切な表現ではないと考えている。新しい事柄が誤りであり得る様に古いことは必ずしも悪いものではなく、このふたつは区別する必要がある。名誉殺人は、明確に「誤った」ものであり、時代いかんに関わらず普遍的に否定されるべきものだと考えている。
5、改善に向けて何ができるか
改善策についてだが先述の通り、価値観の大きな壁、直接的に換言すれば人々の心に「闇」を伴った問題であるために、それは困難の道とも言わざるを得ない。
もちろん、法制度改善はなされるべきひとつの道ではある。
例えばヨルダンでは、「すべての殺人罪は、普通法により何年かの懲役が科せられることになっている。しかし、そのかたわらに第九七条と第九八条として添えられているのが、「名誉の殺人」に関わる殺人の場合、寛大な判決がなされると明記された条項なのだ」(スアドP307)ということであるが、こうしたものが対象になってくる。
しかし、「名誉」信仰者にとって刑法上で厳罰化を図っても、その効果には疑問もある。「07年の調査によると、トルコ人の六七%が犯罪と信仰上の罪を同義だと見ている」(ヨナルP322)とある様に、単純に価値観と法に乖離が生まれることが事態を進展させるとは考えにくい。
効果的な手段として考えられるものとして、救出と教育、そして知ることの三つを挙げたい。
まず救出に関してだが、スアド自身、瀕死の状態から奇跡的に救い出された一人だ。彼女の著作では、SURGIR(シュルジール/出現)というスイスの民間組織が紹介されている。精神的、肉体的に大きな苦痛を抱え、理不尽、不公平な慣習の改善、撤廃に向けて日々活動している財団法人で、救出活動も行っている。戦いは長期になり、複雑で費用もかかる(スアドP306)。また発見が遅すぎたために死亡したケース、逃亡には成功したものの海外まで追跡してきた家族に捕まり殺害された者が大勢いる(同P270)といい、決して簡単ではないが、きわめて重要な活動である。
二つ目の教育についてだが、先述した内容からして現時点で存在する物理的加害者、また加害者予備軍を「更生、軌道修正」させることは、大変な困難を伴い現実的でないと判断されるのではないか。
だとすれば、将来には展望を持たせるべく、未来を担っていく男女双方に向けて、特に人権を中心とした教育を促進、充実させるというのは一般的な方法論としてあると思う。救出が対症療法なら、教育は原因療法としての色彩を持つ。スアドが生活していた村でも少女にとって通学は結婚への障壁になると考えられており、またここでは取り挙げられなかったが、非常に好成績であったにも関わらず、家族により小学校を強制的に辞めさせられている少女もいた(ヨナル第一章)。したがってこの様な教育論法も支配層、権力層たる男性の頑強な抵抗にあうことは明らかで、現実的でないと言われる余地が十分にあるのがこの問題である。私もそういう意味で「一般的な方法論として」と言わざるを得なかった。
だからといって、これを絵に描いた餅のままにしておいてよい法はないとも思う。原因の背後には、教育を受けられない女性の存在も大きいと考える。職業に就くことを熱望している多くの少女たちにとって悲劇であるだけではなく、「名誉の殺人はとりわけ貧しい家族の間に広がる」(ヨナルP324)ということだが、その貧困を永続させることにもつながってくる。
最後に、これもまた長い年月を要することではあるが、救出活動を促進し、教育論法を実現可能なものにするためにも、この因習を少しでも世に知らしめ、廃絶に向けた国際世論を少しでも形成していく活動の必要性がある。
その第一歩として、月並みな意見だが、私たちとしてはまず何よりも「知る」ことが大切であると思う。『傷ついた身体、砕かれた心』も、「彼女たちを一人でも多く救うためには、まず真実を知ることが大切です。世界中でいったい何が起きていて、仲間たちはいったい何に苦しんでいるのか。すべての行動は、まず「知る」ことからはじまります」としている(P70~71)。
ヨナルは「沈黙、無関心も、殺人への「暗黙の加担」であり、沈黙する者はみな幇助者」だと厳しく批判している。スアドは未だに家族に狙われる危険があるにも関わらず、苦難に直面している女性たちのために、生命を賭して、告発のため本を執筆した。その意義は非常に大きいと思う。
おわりに
ところどころで価値観という言葉を使った。文化はそれぞれ独自の発展を遂げてきたものであり、一つの基準で判断することはできず、それぞれの文化に価値を見出そうとする文化相対主義の考えがある。
それ故、「この因習は明確に「誤った」ものであり、時代いかんに関わらず普遍的に否定されるべき」などというべきではない、「それは押し付けだ」といわれるかも知れない。世界的には女性器切除[6]やダウリー殺人[7]など多様に苛烈な女性差別があるが、それらに対する撤廃運動も欧米からの文化的侵略だと看做される傾向も確かにある。そうしたコミュニティにとって人権は必ずしも自明のものではなく、捉え方も私たちとは大きく異なるだろう。
伊藤真は、「人権という概念自体、決して普遍的で論理的に必然なものではないのです。「天から与えられた人権」という発想も、論証ができないための苦しまぎれの説明という感じがぬぐえません。このように、事実としては決して普遍的な価値ではなかった人権発想ですが、今日においては、これを普遍的な価値と認めるべきだという「べき論」として主張されているのです」(一部分加工)と著書で述べている。確かに普遍的である(sein)わけではない。しかし私も、べき論(sollen)としてこの忌まわしき因習を批判する。
最後、繰り返しになるが、真の弱者は声をあげることさえ許されない。
現在も数多くの人々が犠牲になっている中で、暗闇に消える事件も多い。私たちは、せめて氷山の一角でも知り、それを伝えていくべきではないか。
[参考文献など]
アイシェ・ヨナル 安東建訳『名誉の殺人』朝日新聞出版 2013
赤松良子監修/国際女性の地位協会編『新版 女性の権利』岩波ジュニア新書 2005
アムネスティ・インターナショナル『傷ついた身体、砕かれた心』現代人文社 2001
スアド 松本百合子訳『生きながら火に焼かれて』ソニーマガジンズ 2004
ムフタール・マーイー 橘明美訳『生贄の女ムフタール』ソフトバンク・クリエイティブ 2006
伊藤真『伊藤真の日本一わかりやすい憲法入門』中経出版2004
「ウィキペディア 名誉の殺人」
「シュルジールの活動を応援するページ」
伊津見温子「「名誉」のために殺される女性」
DARKNESS
[6] 女性器切除:主にアフリカを中心に行われる風習であり、女性器の一部を切除あるいは切開する行為のこと(Wikipedia)。女子割礼、FGMともいう。
[7] ダウリー殺人:ダウリーはインドに於ける結婚の慣習の一種で、結婚の際に女性側が男性側に支払う持参金や価値の高い物品(貴金属類、宝石、家電製品など)の事である(Wikipedia)。この額などが少ないことを根拠として女性を殺害するのがダウリー殺人である。
以上