先日、大学にて教員有志の会主催の集会があった。
参院選の争点はやはり憲法。その繋がりで折角憲法学者がいるので、ハーグ条約の解釈を質問してみた。

ハーグ陸戦条約§43では、
「國ノ權力カ事實上占領者ノ手ニ移リタル上ハ占領者ハ絶對的ノ支障ナキ限占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ囘復確保スル爲施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ盡スヘシ」
と規定されており、これと日本国憲法との関係性が問題になる。

一般的には、
①戦時国際法故、条約適用があるのは交戦中の場合であり、43条の適用があるのは「交戦中」の占領者である。

②仮にハーグ陸戦条約の適用があるにしても、これは一般法であり、ポツダム宣言という特別法に破られる。

という説明がなされると私は理解してきた。①と②のどっちなんだよというツッコミは当然あるし、それぞれ正しいのかという疑念も当然出てくるところだと思う。とはいえ両者ともハーグ条約の適用を排除する論理である点では共通している。

 

ところが、先月読んだ集英社『憲法改正の真実』という新書では、どうやら異なる解釈が提示されている。対談の中で小林節先生は、敗戦のルサンチマンを受け継ぐ自民党世襲議員をこう批判している。

「彼らはハーグ陸戦条約の「占領地の基本法は、占領に支障なき限り、占領した側が勝手に変えてはいけない」という意味を半端に読み間違えて「占領下につくられた憲法は、国際法上無効だ」などと言いだしてしまう。」

つまり条約適用はあるのだという前提である。

あれ?学界でも意外に一枚岩ではないのだな、と驚いたので、ハーグ条約と日本国憲法の関係性について、教授に思い切って質問してみた。これは割と基本的な論点で、憲法学者なら全員押さえていて当然だと考えていた。

 ところが教授はこの議論を知らないと発言するので非常に驚いた。短い時間の中で話すのが不可能というニュアンスでもない。代わりに、「押しつけ憲法論は、戦後70年の日本の歩みをあまりに軽視している」という趣旨のことを話された。僭越ながら、正直言って、このどこか情緒的な発言は、理論の世界に生きる法学者の言葉とは思えなかった。

 

自民党の改憲漫画(ほのぼの一家)から垣間見える通り、自民党は心の底では日本国憲法を押しつけ憲法であり、故に無効だと解したいというのが本音の部分だと、私は思っている(自民党のそれは純粋な学問的見地からではなく、特殊な感情に基づいている)。屈辱的な敗戦のまさに象徴であり、憎悪対象なのである。改憲漫画で、おじいちゃんはしみじみと語る。「敗戦した日本にGHQが与えた憲法のままでは、いつまでたっても日本は敗戦国のままなんじゃ」。

民主主義に反する選挙制度から選ばれているとはいえ、この様な思想が政権与党、日本最大の政党の根底にあることは、軽視できない事実だと思う。伊藤真先生は、押しつけ憲法論は遥か過去に決着済みだと仰るが、仮に専門家の世界ではそうだとしても、案外国政及び国民世論レベルでは決して自明のものではないのだと考えざるを得ない。今は集団的自衛権行使を批判する生活の党の小沢一郎も、90年代には押しつけ憲法であるということを発言していたと記憶している。

 私にとって、教授の答弁は、このことについてのカウンターサイドの意識が稀薄なのでは、ということを感じさせるものだった。

もちろん、彼らを国会議員、国務大臣、内閣総理大臣足らしめる根拠がなくなってしまうから、首相をはじめとする自民党としても現実に憲法を無効だとは絶対に言えないのは間違いない。政治的には対米関係にヒビが入るという事情もある。だから反対陣営は戦略上、憲法適合性及び改正論に的を絞って闘えば、それで十分と言える。敢えて相手の土俵にのるなどというリスクを冒す必要はない。利敵行為にもなりかねないそれは暴挙と非難され得るし、どんどん泥沼に嵌って実利も正直ないかもしれない。

 しかし押しつけ論を否定する側としてもこの件について無頓着ノータッチでいいのだろうかという疑問もある。もちろん理論的な説明をされる方もいるが、少なくともハーグ条約の話を金輪際知らなかったり、日本国憲法は豊かな人権規定等を備える素晴らしい中身だから生まれはどうあっても構わない、という議論は、内容と手続きを同一のレベルで論じており、乱暴ではないかと思う。反論の強度としては最弱で、復古勢力に立ち向かえないものと考える(ただし、「押しつけ憲法論」に立ちつつ、瑕疵治癒論を唱えるのであれば一応納得できる)。

ひと昔前は、改憲を口にするだけで軍国主義、戦争主義だとレッテルを貼られる様な状況があったというが、日本国憲法を神聖不可侵な崇高な法だとし、ラディカルな議論をタブー視する風潮は、憲法の生まれを問わない姿勢に一因があるのではないかと思う。どこかそれはエモーショナルな点で復古勢力と似ている節がある。

政治的無関心が多いというのは、ひとつには憲法を自分たちのものとして捉えることができていないことに因るのでは、という思いがある。日本国憲法はもちろん明治憲法より優れた中身だが、国民的議論から成就したものというよりは、敗戦により棚から牡丹餅として、偶発的に得た(謹呈された)最高法規である。だから遠いし、権理意識が低いのかもしれない。中高では民定憲法だと教えられ、法的擬制としてはそれで良いのかもしれないが、経緯としては欽定憲法である(ついでに言うと、私は八月革命説より憲法改正説の方がすっきりとした説明ではないかと思っている)。

しばしば言われる通り、日本人はフランスやアメリカの様に自ら権理、独立を勝ち取った歴史があまりなく、憲法もそうである。このことが日本国民の稀薄な政治意識に繋がっていると考えるのは決して突飛ではないと考えるし、憲法を国民がきちんと考え、捉えることが求められるのではないかという問題意識がある(もちろん法学者と一般市民とでは差異はあって当然)。

それは、自民党の憲法破壊を阻止する運動を通じて形成されていくべきものだというのは、もちろん理解できるし、共感する。「神学論争」ではなく、とっつきやすい。

ただ、以上のような、ある意味危険でラディカルな議論を省く傾向を見ると、何か喉にものが刺さった感覚もする。低レベルだから相手にする必要がない、のかもしれないが、その「低レベル集団」が日本を牛耳る現実を見れば一笑にふすことはできないのではないかと考える。

この様な考えは、もちろん運動論とは相性が悪いが、しかし等閑視できないことではないか。

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ところで私が押しつけ論をどう考えるかについて一応現状の考えを書いておく。論点整理としては不十分な点があることは自覚してます。

 誰が誰に押しつけたか、が問題になる。改憲漫画では、GHQ、すなわち戦勝国が「日本」という敗戦国に押しつけたということを言いたいようである。ここで注目すべきなのは、客体が為政者ではなく日本という敗戦国である点だと考える。憲法改悪派に特異の思想傾向として、国家と国民の対立軸で捉えず、両者が同一平面に肩を並べ、同じ方向を向いて歩むという不気味な国家有機体説憲法観を指摘することができるが、それがここにも強く表れていると思う。

しかしそもそも近代憲法とは、国民の権理を守るために国家権力を縛る法であり、従って単に国、だけで説明されるものでない。権力者と国民とに分けて考えることが適切だと考える。

その憲法の性質上、権力者とは常に押しつけられたと感じるものである。この点問題はない。

他方国民は普通押しつける側に立つ。この点、日本国憲法はどうかというと、実質的に大きな権限を有していたGHQが押しつけの主体となっており、国民的議論が巻き起こったわけではない。ここで、GHQが主体となったことが問題なのか、それとも国民が不在だったのが問題なのかという点で分岐する。押しつけ論者はどちらを咎めたいのだろうか。

 日本国憲法は制定に当たり、普選で選ばれた議員の集う衆議院を通し、そもそも憲法草案要綱など民間に存在した憲法草案を参考にして作成されたものだった。一方、大日本帝国憲法は全く国民の関与なく施工されている。押しつけ論者が明治憲法を国民不在だと批判しないこと及び国家有機体説傾向からすると、やはり国民不在が問題なのではなく、戦勝国が主体となった点を咎めたいようである。GHQではなく自分ら為政者が引き続き決定したい、或いは明治憲法を存続させたいと考えていたのである(国民を軽視する見方の押しつけ論者が、目下国民主権に基づく自主憲法制定を目指すのも皮肉である)。

押しつけ論者と私は、押しつけの客体では異なる考えだが、主たる主体が戦勝国であるという点では一致する。ただしこれを問題視するかどうかで、私としては、これは国際法上瑕疵がなかったと考える(ハーグ条約との関係の点は確定できていないが、とりあえず小林説をとる)。

では国民はどういう位置づけかというと、現行憲法はその中身は国民本位であったので、「謹呈対象」と考える。本来の主体たる国民の代わりに、GHQが憲法を為政者に押しつけた。その意味で国民には良き法が謹呈されたとする。

なお、私は一応憲法改正説に立っている(つもり)で、形式面においては、為政者(天皇)から国民への押しつけ(欽定憲法)となり、これはすなわち明治憲法と同様との捉え方になるだろう。

最後にひとつ、竹田恒泰氏は次のような、ある種身も蓋もないことを言っている。

「憲法については、いかなる手続き上の瑕疵や違法性があったとしても、憲法自体を無効とする法理は存在しない。なぜなら、いま世界に存在している憲法のほとんどは違法な手続きに基づいて成立したものであって、そもそも憲法は戦争や革命や動乱の中で、短期間のうちに書き上げられるものだからである」

政治上、社会上の強力がこれを決する、ものであって、正しい解釈など観念できないと考える。

皆さんはこれをどう考えますか?