私の家にはテレビがありません。
数年前までは持っていましたが、
見たいと思えるコンテンツがなくなったので思い切って手放しました。
ラジオも聴かないので情報ソースはインターネットのみになっています。
テレビを見なくなって気づいたことが二つあります。
一つ目は、自分の考えが他人の意見に引きずられてしまいがちだということ。
他人の考えや印象を鵜呑みにしてしまい、
自分で深く考えるということをしてきませんでした。
そのため、他人の意見を聞くたびに自分の考えがコロコロ変わってしまい、
AかBかの判断を迫られたときに決断することができず、
思い切って決断すると結構それが全くの的外れで、
それが原因で自分の意見に自信を無くして決断ができなくなるという悪循環に陥っていました。
まだこの悪循環を断ち切ることはできていません。
他人から否定的な意見を受けることに耐性をつけることが、一つのカギになるのではと考えています。
二つ目は、「正しさ」は発信する人間の立場によっていくらでも変わるということ。
一つの物事には大抵、ポジティブな表現とネガティブな表現があります。
同様に一つの情報も切り口によって印象が全く変わってしまいます。
テレビを見ていたころは、テレビで放映される切り口のみで情報を判断していましたが、
自分の情報ソースからテレビを切り離したことで、
自分の切り口で情報を判断したいと思えるようになりました。
そう思う中で気づいたのが、
「正しさ」や「正義」という言葉は自身を正当化するための飾りでしかないということです。
現在進行形で起きている戦争一つとっても、互いに「自分が正義」だと思い、相手を「悪」とみなしています。
言う人間の立場によって「正しさ」が違うなら、じゃあ「正しさ」って何なのよ、と。
情報ソースをインターネット一つに絞ってしまったことで、
自分が見たい切り口の情報しか見なくなるという弊害も多少は出てきています。
だから今は、事実を中立の立場で発信してくれる情報ソースを探しつつ、
一つの情報に対してできるだけ多くの記事を読むように心がけています。
それを進める中で自分の考えを一つ持つことができて、
自分の意見に対して批判的な意見を持つ人とも議論できるようになれば、
自分に自信を持つことができるかなと考えています。
だから私は情報に対して、「正しさ」ではなく「事実」を求めます。
数年前までは持っていましたが、
見たいと思えるコンテンツがなくなったので思い切って手放しました。
ラジオも聴かないので情報ソースはインターネットのみになっています。
テレビを見なくなって気づいたことが二つあります。
一つ目は、自分の考えが他人の意見に引きずられてしまいがちだということ。
他人の考えや印象を鵜呑みにしてしまい、
自分で深く考えるということをしてきませんでした。
そのため、他人の意見を聞くたびに自分の考えがコロコロ変わってしまい、
AかBかの判断を迫られたときに決断することができず、
思い切って決断すると結構それが全くの的外れで、
それが原因で自分の意見に自信を無くして決断ができなくなるという悪循環に陥っていました。
まだこの悪循環を断ち切ることはできていません。
他人から否定的な意見を受けることに耐性をつけることが、一つのカギになるのではと考えています。
二つ目は、「正しさ」は発信する人間の立場によっていくらでも変わるということ。
一つの物事には大抵、ポジティブな表現とネガティブな表現があります。
同様に一つの情報も切り口によって印象が全く変わってしまいます。
テレビを見ていたころは、テレビで放映される切り口のみで情報を判断していましたが、
自分の情報ソースからテレビを切り離したことで、
自分の切り口で情報を判断したいと思えるようになりました。
そう思う中で気づいたのが、
「正しさ」や「正義」という言葉は自身を正当化するための飾りでしかないということです。
現在進行形で起きている戦争一つとっても、互いに「自分が正義」だと思い、相手を「悪」とみなしています。
言う人間の立場によって「正しさ」が違うなら、じゃあ「正しさ」って何なのよ、と。
情報ソースをインターネット一つに絞ってしまったことで、
自分が見たい切り口の情報しか見なくなるという弊害も多少は出てきています。
だから今は、事実を中立の立場で発信してくれる情報ソースを探しつつ、
一つの情報に対してできるだけ多くの記事を読むように心がけています。
それを進める中で自分の考えを一つ持つことができて、
自分の意見に対して批判的な意見を持つ人とも議論できるようになれば、
自分に自信を持つことができるかなと考えています。
だから私は情報に対して、「正しさ」ではなく「事実」を求めます。


