ちょっと手の届きにくい背中の痒いところを、棒切れかなんかで、的確にツンツンしてくれるようなやさしさが心地よい内田樹先生。


まったくよくわからない愛情表現でごめんなさい。

でも、ゴシゴシ強くしない加減がステキなのです。


さて、うなずく部分が多い先生の書物であるけれど、

時には違和感を覚えるところもあります。


私たちが、他者の言葉に違和感を持つのは普通のことであって、

別になんてこともないことかもしれない。


私たちは、物理的空間を一部共有して生活しているけれども、複雑な世の中を渡り歩くために、個々人、若干異なるだろうハードウェアの脳みそに、若干異なるソフトウェアをインストールされて、目の前の難題にとりあえず向き合うためにデータを活用して何とか生きている。


取りあえず、「私のプログラムから見るとこう見えます」というところのものに、折り合いをつけながらみんなで暮らしている。誰もが、違和感でいっぱいなのだから、ちょっとした違和感はなんてことのないことだ。


でも、その違和感はなんなのかについて、ちょっと向き合ってみることで、自分の頭のソフトウェアをアップグレードできるかもしれないというくらいの理由で少し考えてみたい。


さて、先生は、『女は何を欲望するか?』において、「男女共同参画社会」という言葉にかすかな違和感を覚えるとおっしゃっている。


この言葉が意味するのは「男も女も社会的資源(権力、地位、名誉、財貨、情報、文化資本・・・)を求める点においては変わらないので、この資源の競合的配分において性差別があってはならない」という事だという。


お父さんにはお父さんの役割があって、お母さんにはお母さんの役割があって、そんなふうに「男女はニッチを異にする存在」であるのに、男女共同参画社会と言う言葉には「男女は同一のニッチに属する」という無言の了解があるという。


そして、「男女共同参画社会」論はしばしば(無意識のうちに)「能力主義」的な語法で語られ、最終的には合理的な資源配分方法として「自由競争」が残り、能力あるものが取れるものをとり、能力のないものは自己責任によって飢える。そのような「究極の競争社会」が「男女共同参画社会」の実相である。と、内田先生は指摘する。


先ほど述べた「わたしのプログラムからはそう見えます」という考え方からすれば、このような論も成り立つかもしれませんし、ロジックの上ではそういうところもあると思います。


ただ、同じ言葉をわたしが、「わたしのプログラムからはこうみえます」と言うと、もっと単純です。


「男女共同参画社会」とは、男性も女性も、つまりみんなが、共同で、自分たちの暮らしの仕組みづくりに参画する社会」という、そんだけのことになります。



「俺は、女性のことはよく知っていて、どんな社会を好むかも熟知している。良い社会にするから男の俺に任せてついてこい」という男性は、なんとなく胡散臭い気がします。そんな男性の作る社会に「参加」するのではなく、社会づくりに「参画」する、そんだけです。


これは、「私は、あなたたち開発途上国の経済や社会を研究し、熟知しています。さあ、プロのわたしの開発計画に賛同し、黙ってついて来れば社会は発展するでしょう」と言う風に考えている先進諸国の開発援助のプロや、先進諸国に留学してすっかり毒されてしまった開発途上国の専門家もまた、胡散臭いという事と共通する何かが感じられます。


これまで、「なる」に任せてきたところから、自分たちの社会を自分たちで考えて「つくる」作業にみんながかかわることが、男女共同参画社会です。とわたしのプログラムは言っているのです。


そもそも、男女共同参画と言う言葉、英語に直すのが難しい・・・・・・。

仕方なく、Gender equalityという言葉があてられることがあるけれど、必ずしもしっくりこないということもある。


というか、個人が単位で構成されるという意味で個人主義の社会では、そんなことはやや当たり前すぎて、小集団ひとくるめの社会では、ひとりひとりが参画して社会づくりをしましょうということを入れて、ワンクッション入れなくてはならないので、こんな言葉が生まれたのかもしれません。


男性女性いっしょになって、どんな社会をつくって暮らせば、今の自分たちにも、次世代の人たちにも良いかねえ、ということを検討したうえで、「ニッチを異にする」社会にするのであれば、それはそれでよいことと思います。


ただし、現実には色々な課題もあります。


例えば、結婚して子供が出来たら会社で働けないような雰囲気があり、仮に離婚して、シングルマザー(ファーザーでも該当することはあるけれど)で働きながら子育てしようとすると、再就職も非正規(というのも変化言葉であるが)しか働き先がなく、児童の貧困が問題となることもあります。


社会保障制度や会社の福利厚生などを信じて、金の卵として都会で核家族を作った人たちの「つくる」社会は、地縁や血縁などの紐帯を弱体化させ、気が付けば、相互扶助も難しい、孤立社会と化しつつあると言えるのかもしれません。


そんななか、こんな喫緊の問題がある社会だけれど、誰かやって、ではなくて、みんなでなんとかしましょうというのが、男女共同参画社会であると、


青臭い僕のプログラムは言っているのです。