「存在レベル」から自己肯定〜自分の軸で生きる〜
こんにちは。今でこそ私は「自分らしく生きる」ことを信条に日々を過ごしていますが、つい1年前まではそんなことを微塵も考えない、ただ目の前の辛さに苦しむだけの人間でした。元々自己肯定感の低い傾向にあったとは思いますが、それは何より「他人・他者の軸」で生きていたからということに、体を壊したことでようやく気がつきました。気づくのが遅すぎるとも思いますが、それでも気づけただけまだだいぶ良かったと思います。そんなわけで、今回は自己肯定感と自分軸・他人軸という点で書いて行きたいと思います。○安心・安全を自ら確保するまずは、演奏の話から。例えば、演奏会で大事なソロを任されているときや、凄い先生のマスタークラスで一曲演奏するとき。とても緊張します。いい音が出なかったらどうしようとか、間違えたらどうしようとか、色々な懸念が頭を駆け巡ることでしょう。さて、客観的に考えてみたいのですが、いい音が出なかったらどうなるのでしょうか。もし間違えたら、何が起こるのでしょうか。地球が滅亡するでしょうか。もし地球が滅亡するなら本気で間違えないような練習方法を考えた方がいいと思いますが、きっとそんなことは起こり得ないでしょう。「いい音が出なかった」「間違えた」ということは、単なる事実にすぎません。「いい音が出た」「正しく吹けた」ということと、事実であるという点において同レベルの出来事です。では、どうしていい音が出ないことや間違えることを心配するのでしょうか。それは、それらの出来事に対して自らが低い価値をつけているからに他なりません。いい音が出なければ認めてもらえない。間違えたら恥をかく。だから、ちゃんとやらなければいけない。これは、既に「他者の軸」の発想です。そもそも、「失敗したら」という未来のことを考えている時点で、「未来の自分」という他者(しかも存在してすらいない!)に軸を取られています。高いレベルに行けば行くほど成功・失敗が具体的な問題となって現れやすい(次の仕事につながるかどうか、など)とは思いますが、演奏する前からそれを積極的に考えることは効果的ではないでしょう。結果的にいい音は出ないかもしれませんし、間違って演奏するかもしれませんが、それは演奏してみないとわからないのです。これは自分の師匠にもよく言われているのですが、演奏の場というのは基本的に「安心・安全」です。本番の舞台上であれば演奏が止められることもないし、おそらく物が飛んできたりとか誰かが襲ってきたりということもないはずです。(逆説的には、演奏の場はそういう空間でなければいけないということです。演奏をあえて危険だと思い込ませるような指導は、行われてはならないのです。)なので、演奏するときには、「自分はここで○○(楽器名)を演奏する存在である」「演奏することにおいて、私は十分に安全・安心であり、何もにも妨げられない」「自分は今ここにいるだけで十分に完全であり、これから何が起こるかは問題ではない」というように、今この瞬間だけに目を向けて、自分で自分に安心・安全をもたらすのです。こうすることで、他者に移っていた思考の軸を、自分のところに戻してくることができます。演奏前に演奏後のことを考えて恐怖や懸念を生み出しているのは、自分自身に他なりません。それならば、自分自身の考え方を変えることで、安心・安全も生み出せるものでしょう。○存在レベルで自己肯定もうちょっと大きな話へいきましょう。生きていると、たくさん辛いことがあります。仕事で失敗して上司に怒られたとき。信頼していた友人に裏切られたとき。大切な何かを失ったとき。その瞬間に感じている、辛い・苦しいという思いは本物です。どんなことがあっても何も感じないなんて人は少なくとも私は知りません。ですが、ここで「上司に叱られた自分はなんてダメな人なんだ」「あんなに信じていた友達に裏切られるなんて自分にはもう価値はない」などと思うのはいけません。叱られた・裏切られた・失った・・・というネガティブな「事実」と、自分に対するネガティブな「評価」を一緒にしてはいけないのです。「上司に叱られた自分」というのも、「信じていた友達に裏切られた自分」というのも、全て「他者を通して見た自分」の姿です。確かにその上司は自分を叱ったかもしれないし、友達は自分を裏切ったでしょう。それ自体は事実ですが、それをベースに自分の価値を考え始めてしまうと、やはり「軸」が他者に移ってしまいます。他者とは、本来コントロールできないもの。それに軸を取られて振り回されていても、辛さばかりが募るだけで解決・解消へは導かれません。では、どうするか。それは「自分で自分の価値を認めてあげる」ことです。ただ認めるだけでは足りません。本気の自己肯定です。どのくらい本気かと言うと、「今ここに存在しているだけでよい」というレベルまで自分を肯定するのです。自分は今、ここにいる。生きている。それだけでパーフェクト、完璧。髪の毛1本から足の爪の先まで、精神も魂も存在するだけで意味がある。本気で、そう自分に言い聞かせるのです。自分で、自分の存在そのものにOKを出してあげられると、他者基準ではなく自分の基準で自分を見ることができるようになります。1年前までの自分は、特に仕事において上司・同僚・他部署の人間・お客さんがどう自分を見ているか、という観点に終始していて、様々な立場の人に合わせようとして、自分の特性や向き不向きをないものとして扱ったがために、自分の軸を完全に失って、心身を病みました。ボロボロのどん底から色々と学び直して、ようやく本気でこの考え方にたどり着くことができました。誰かに認められたり、何かを所有することで自分の価値を見出すのではなく、自分の存在そのものが既に価値のある存在であるということ。当たり前のようでいて、かなり見失われている事実だと思います。○何がどうあっても大丈夫。だけど・・・こんな風に書くと、「なるほど、私は何をやっても自分を許していいんだな!」なんて思う人もいそうです。・・・実際そのとおりです。何があっても何をやっても、自分で自分の存在を肯定することはできます。ですが、同時にこういうことも念頭に置いておいてください。自分軸で生きていくということは、自分の言葉・行動・態度・振る舞い、それらによって起こることの責任を全て自分で引き受ける覚悟を持つということです。それ以降、一切他人のせいにはできません。その行いが社会の共通ルール、つまり法に反していれば、司法が自分を裁きます。法に違反していなくても、その行いが誰かを害すればその人は自分から離れて行きます。それでもなお「自分は自分」と、自己肯定を他者を思いやらない言い訳に使い続けると、いずれ自分の周りには誰もいなくなっているでしょう。果たして、そこに幸せがあるでしょうか。(そうなったとしても、水も電気も割と簡単に手に入るこの国では、最低限生きていくことくらいはできそうですが)人間は、社会的動物です。社会、つまり他者とのつながりなくして生きていくことはできません。そこで、他者に求められて期待に応えることでつながっていくのではなく、自分から心を尽くしてできることによって、他者とつながっていくのです。心を尽くして行ったことが、必ずしも他者に受け入れられるとは限りません。そんなときに、この「存在レベルの自己肯定」を思い出すと良いでしょう。他者に心から本気で向き合ったときに、なお自分軸であり続けることができれば、これ以上「強い」ものはないと思います。〜以上〜