2回目の審判の時に少年友の会の付添人をつければよかった…か?
本当にそうか?
この点は、ちょっとデリケートな問題を含んでいます。
この反省に対しては
「2回目の審判で付添人をつけていたら、結論が変わったのか?」
という反論があり得るのです。
そもそも、3回目の審判だって、付添人をつければ結論が変わると保証されていたわけではないんです。
K先生は現にお兄ちゃんをれーかちゃんの前にひざまずかせることはできませんでした。
審判の朝にメールが来たことだって、前もって約束されていたことではありません。
もしメールも来ていなかったら…?
そう考えてくると、そもそも少年友の会の付添人をつけることにどれだけの意義があるか? というテーマにぶつかります。
内心、そういう思いを抱えている裁判官も少なからず居るのではないかと思っています。
(わたしは、実はそういう立場も心情的にわからなくもない…です)
こういう立場をもうちょっと進めていくと、なにも少年友の会に限った話ではなくて、弁護士付添人にも当てはまるのに気付きます。
弁護士付添人がつけば、結論は変わるのか??
この話はコワいんです。
裁判官だけじゃなくって、調査官も、書記官も、そういう思いを抱く可能性はあります。
さらにコワいのは、付添人になる側の人までそういう思いを抱く事態です
「自分が付添人になったところで審判の結論が変わるのか?」
で、ホントにコワいのは、そういう意識がわれわれ大人みんなに蔓延することです。
「裁判官が審判したところで、少年を変えられるのか?」
「調査官が調査したところで、なにかがかわるのか?」
その延長には、「少年法によってホントに少年が更生するのか?」という終着駅があります。
わたしは、そういった意識を徹底させれば、家裁不要論になると考えています。
れーかちゃんのケースは、大げさに言うと、家裁のスタンスが問われていると思います。
わたしは以前、家裁は地裁と違うものさしをもつべきだと、ここのブログに書いたことがあります。
れーかちゃんのケースで、少年友の会を活用しないなんて、もうまったく地裁のものさしだと思うのです。
センスがない。一体なんのための家裁だか…。
一方、ここのブログで少年審判は「効果」がないといけないとも書いたことがあります。
ここでいう「効果」を、審判の中で少年を更生させることに限定して考えてしまうと、法制度そのものに懐疑的な立場になるかなって気がします。
少年審判が目指す「効果」ってもうちょっと広い意味ではないかと…つまり、審判廷の中だけでの反省とか更生じゃなくって、もうちょっと深いところでの「効果」ではないかと思います。
このへんの根本的な理解が、付添人にどう関わってもらうかの問題に反映されてくると思うのです。
当時のジェイは、そういった「少年審判に対する世界観」があまりに漠然としていたために、れーかちゃんのケースで少年友の会の付添人を頼む機を逸したのではないか…?
「少年審判に対する世界観」が漠然としていたというのは、つまり、少年事件をナメていた…
…そういうことなのではないか…