阪神大震災から12年が経ちました。


あれからもうそんなに経ったのか!


つい先日の出来事のような気がしますが…





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家族療法についてはしろうとなんですが、しろうとなりに、少年審判が「家族療法」たり得ているか、考えてみます。


まず、家族全体を対象とみていることは間違いないです。




よく、審判廷で、少年が直面している問題は少年自身の問題だから、親はなにもできないという意味の発言をする親御さんがいます。

このような場面には、二種類あって、


子どもの問題と距離を置くことで親が現実を直視することを避けているタイプ

と、

敢えて自分ら家族を客観視しようとしているタイプ


とに分けられそうです。


その違いは、あらかじめ調査官が調査してくれている結果と現に審判で親が発言している状況とを突き合わせてみると、実感としてわかりますね。



もちろん、後者のタイプは問題性が小さいです。

後者のタイプの家庭は、親が「なにもしてあげられないから」と言いながら子どもを見守り、適宜に手をさしのべるような関係が期待できるように思います。


問題なのは前者のタイプです。

これでは今後子どもを監督してもらうことは期待しにくい。

うがった見方をすれば、親がそのように現実認識力がないから、子どもも現実を認識できないでいるのではないか…という心配があります。


ドライに考えれば、親にそのような問題があっても、子どもの方に働きかけて、再非行の防止を期しておけば、少年審判の役割としては十分なようにも思います。

現に、審判廷でハッキリそのように言ったこともあります。

しかし、考えてみると、どういう処遇であれ、少年はいずれ家族のもとに帰るわけです。

その時に、問題を抱えた親のもとに帰るのであれば…いくら審判の時に少年に言い聞かせたところで、所詮一過的な効果しか期待できないように思うわけです。


とくに、このジレンマは、軽い非行の審判で深刻になります。

こっちは、事件の内容からして、不処分でもいいんじゃないかと思っているような場合です。


少年も…まあ懲りているようだ。

事件も大したことない内容だ。


ところが…親が審判で「わたしは関係ないので」みたいな不穏なコトを言う…

調査票には、両親が不仲で、自宅にも不在がちなんて書いてある…




わたしの場合、やっぱり放置できませんね。

不処分の結論にしようと思っている審判でも「ちょっと待った」ってところです。


「今日は、お子さんを少年院に入れるか、このまま自宅に帰ってもらうか、決めるために手続をしています。」


「結論は、これから、わたしが決めます。」


「お母さんは、どっちの結論がいいと思いますか?」


「なぜそう思うんですか?」


「お父さんはどうですか?」


「そもそも少年院に入ってもらうかどうか決める時は、裁判所はどういったことを考慮すべきだと思いますか?」


「その少年の親が今後も適切に少年を養育できるかどうか、そういったことも考慮しなければならないと思いませんか?」


「そういう時に、審判で、子どもの前で、ああいったことを言うのは、親としてどうですか??」




こういう展開になってくると、もう明らかに手続の対象が家族そのものになっていて、少年審判が家族療法としての機能を果たしている一面もあるかなぁ~という気がします。


審判だと父親も出頭する率が高くなるので、心理療法としての家族療法よりも条件がいいのかも知れません。



両親を両脇にした少年に、両親のことを考えさせるのにも都合がいい状況です。


「君のお父さんが、今朝からどんな気持ちだったと思うか、言ってみなさい…今朝だよ今朝…」


で、少年がボソボソと「情けない気持ちだったと思います」とか言うわけです。


「それだけですか?」


「 … 」


「情けない、情けない…朝からずっとそのことしか考えてなかったかな?」


「 … 」


「隣のお父さん見てみたら? どんな顔していますか?」


「 … 」


「全然お父さんの気持ちがわからないですか?」




わたしは、実はこういう場面で親御さんに迫っているつもりなんです。


少年審判に出頭する親の気持ちって、フクザツだと思いますねえ~かなり。


だいたい、裁判所ってところに行かなきゃいけないのが抵抗あります。しかも、自分の子どもがしたことの後始末ですよ。緊張もする。もしかすると途方もない処分になるかも知れない。仕事のことも気になる。子どもに対する怒り。配偶者に対する怒り。


あと、なんといっても…自分でどっか子どもの育て方まちがえたか…というなんともいえない不安…


その他もろもろ…そういう、まあ感情のカオス状態を引きずっていると思うんですよねぇ。


で、そういう親の心情の重さみたいなところは、子どもの方はいたって無頓着なわけです。無頓着ではないのかも知れませんが、少なくとも審判でそういった感情の理解を表現することなんか、できない。

そこを「そんな単純な気持ちで親が来てくれているのではない」とバッサリやる時に…



泣いている親御さん、けっこう居ましたね。


少年審判って、家族療法かも?ってところの、自分なりのイメージです。





しかし、やっぱり少年審判は家族療法そのものではない、決定的な違いもあります。