「なぜ少年審判が家族療法なんでしょうか?」
この際、先生に聞いてみたんです。
「だって、少年審判ってお父さんが来てくれるんでしょ?」
と、その大学の先生は言いました。「わたし達が家族療法したいって思ったって、来てくれる父親はいないですよ。」
「少年審判だって…父親が必ず来てくれるわけではないんですが…」
そう言いながら、でも確かに裁判所から連絡が来たら出頭する父親の割合は多いよなと内心思いました。
そういう事情でもない限り、家族のために、父親が仕事を休んで病院や施設に行くって発想は、まだまだ日本の社会では少数派です。
少年審判だって、在宅事件の場合は身柄事件よりも父親の出頭率は低いです。
そう思いながら先生の話を待っていると、先生は
「だから、家族療法っていったって、現実には母子関係を診療対象に据えることが多いんです。これは、本当はちょっと違うんですよね。だから、家裁の少年審判は羨ましい。」
と言いました。
羨ましい?
診療対象?
たしかに、少年審判を「診療」に例えると、その対象は
発生した事件
だけでなく、
少年自身(の資質)
や
少年の家族
も入ります。
わたしの審判廷では、少年の両側に保護者に座ってもらっていました。
審判を始めようとする瞬間、少年の隣に座った母親が、正面のこちら側を見ながら、手をそっと伸ばして少年の手を握ることがあります。
あれは、なんでしょうね…どういう気持ちの行動なのか、一概に言えませんが、その時すでに裁判官は調査官が作った調査票の内容を頭の中で反芻しています。
調査票に母子関係が密着しているといった記載があれば、すぐさまその裏付けの行動では??と考えながら審判を進めます。
逆に、少年の幼さに比べ、母親の規範意識は非常にしっかりしているといった記載があれば、こういう場でさりげなく子どもの気持ちを支えて審判に臨もうとする親の意識の高さを感じつつ、審判を進めます。
もちろん、父親の言動も丸見えです。
はっきり言って、黙って座っているだけの親でも、その親の意識は見えてしまう…
そうか…
たしかに、診療の対象が家族になっているかも…
考えてみれば、審判中に父親と母親が言い合いになる場面もあったんです。
過去の記事ですが、例えばこちら ↓
http://ameblo.jp/be-a-superman/day-20051030.html
むかしテレビで見たアメリカ式のカウンセリング、捨てたもんじゃないかも…