それは、世界を侵す恋。
2003年に発売し、今年で16年目を迎える不朽の名作と名高い作品
イノグレの「PARANOIA」を購入する際に、おすすめ欄に上がっていて気になっていたので購入
交通事故とその時の手術で知覚が歪み、目に見える光景が全て悍ましいものになってしまった主人公
なんとか懸命に世界に対応しようとするも、どうしても歪んだ世界に耐えられなくなり自死を図ろうとした所に主人公の世界でただ唯一人間として見える沙耶という少女に出会い・・・
以下 感想(ネタバレ注意)
3つのエンディングを視聴した後、自分の中に残った感想としては「愛」でした
この作品はグロテスクなシーンが多いこと、3エンドのどれもが主人公と沙耶の別れを表現していることから「グロゲー・鬱ゲー」と取り上げられることが多いのですが、一方で「純愛物」として広く?認知されています
作中、主人公の行動のほぼすべてが沙耶を思う故の行動であり、また沙耶の行動のほぼ全てが主人公を愛するが故の行動として感じられるからでしょうか
その愛が結末のそれぞれ異なる3エンド全てで感じられることから「純愛物」として広まっているのかなと感じました
ちなみに、自分が純愛ではなく「愛」と感じたのは「そもそも純愛ってなんだ?」と純愛の定義を理解してなかったからです
辞書より「純愛=純粋な愛」
Wikipediaより「純愛とは邪心のないひたむきな愛、自己犠牲的な愛、プラトニックな愛、見返りを求めない無償の愛」
…なるほど、たしかに2人の愛は互いを互いのみを思う純粋な愛だと感じたので純愛なのかもしれません
特に沙耶は物語の中盤、最初の分岐として「主人公の知覚を直して元の世界に戻せる」と提案します
それはつまり沙耶がいままでの沙耶としては認識されなくなり、沙耶にとってはなにも見返りがなく、おそらく主人公から拒絶される「痛みを伴う別れ」が待っているだけにも関わらずそれを提案し、実行する
まさに見返りを求めないただ主人公の幸福を願う無償の愛、「純愛」といわれればきっとそれなのでしょうね
ただ一つ腑に落ちない、というかこのゲームで「純愛」を語る上で思ってしまう疑問が「主人公がもし沙耶の本来の姿、普通の人間が見る沙耶の姿」を見たらどうなるのだろうかな?というしこりのようなものが自分の中では存在している
もし主人公が沙耶の本来の姿(耕司をはじめ、ほとんどの人間は見た途端発狂してしまう造形)を見ても同じように愛することが出来るのならそれは種族を、認識を超えた究極の愛というか「純愛」と表現するほかないものでしょうね
どのエンドでも最後まで主人公は沙耶のその姿を見ることなく物語は終結するので個々の想像や考察で答えを出すしかない疑問です
たとえ沙耶が怪物の姿をしていたとしても、主人公はいままでと何ら変わることなく彼女を愛する彼であって欲しいというのが個人的な願望ですがどうでしょうね…
いままでずっと付き合いのあった友人たちや隣人を知覚の異常で化物に見えるからと処理して、一方で後半に人間に見えるようになった友人は人間に感じるからと暴力を振るうことをしなかった主人公にとって異形の姿の沙耶は受け入れられるのでしょうか…それとも
…
一番好きなエンドの病院エンドにて沙耶の様子が主人公側の感覚で描かれているのですが、ほかの場面では沙耶という異物を表す言葉として「汚水のような異臭」「藻がびっしりと張った気色の悪い色の粘液」と醜悪な異物を表現するような様子だったのに対し、「ぺたぺた、と優しく扉を叩いた~」と異形を好意的に捉えているような表現なのはもしかしたら…
「・・・僕は、構わなかったんだよ」
ネタバレ全開の拙い感想を長文でダラダラと失礼しました
もし少しでも気になったら是非購入してプレイして見て下さい



