父の命日から2年が経ち、3回忌の法事を終えて今日は日中病院に行ってきました。
障害の方です。まだまだ一般の理解が少なく、人に話す時にも躊躇われます。

その前日はヲタク友達の東京観光に付き合いいろんな所に行きました。
所謂聖地巡礼ってやつです。

アプカミでお馴染みくろっきセンセイのお店、京寿々に行き、モーニング娘。カフェに行き、研修生の舞台に行くというのでお見送りをして、自分はハロショ秋葉原でのトークイベントへ。

最後の方での話でようやく自分の身体に出来た障害の話をして。


この話をする時
心配して欲しいとか、可哀想と思って欲しいとか、そういうのは無くて。
だから話す時いつも躊躇われるのですが、変に気を遣う訳でもなく接してくれて良かったです。




ですが、イベントやライブに行く際は障害者席というか優先的な場所に案内してもらうようになりました。

例えばスタンディングのライブでの椅子の手配。座りか立ちかが抽選になってしまうトークイベント。
歩いてたり動いてれば平気なのですが、3回忌の時、ものの5分も立ち続けることが出来ず
呼吸が苦しくなったりしました。

その事があるので必ず座っていなければならないのです。
かと言って、座りっぱなしでも座った時に障害の違和感が気になってしまう。




じゃあもう行かなきゃいいじゃん


と、言われてしまっても仕方ないかもしれません。

見た目は健常者と同じなのですから。
そして普通に見えるが故に、「前に来てた時は普通に立っていたりしてたのに、今更障害者扱いされてるのはおかしい」と、そう思う人も出てくるかもしれません。

それは憶測であり、ただの自分の過剰な被害妄想でもあります。


ただ

誰とも言えない視線が怖い。
それは全く知らない人、何度か顔を見かけた人、何度か話したことがある人、イベントなどに行けば必ず声をかけていた人。
様々な視線が、自意識過剰であっても良くないことを想像させて怖いです。


今さら
人付き合いの下手さに困惑してしまうなんて。





これを機に、様々な人から離れて仕舞えば
こんな想いもしないで済むのかな。






病院に行く途中。いつも付き添ってくれる母がぽつりと「3回忌まではしっかりやるつもりでいた。だけど、この先ただ歳をとるだけの人生を共に生きるだけな毎日が申し訳無くて居なくなりたい」なんて。

それはそっくりそのまま自分の言葉な気がした

病気とは言え、休職にならなかった仕事を退職して、治療に専念して、と言われても毎日を何も無く生きている。

手術が成功したのかもしれないけど
障害を負った身体。なんで生きてるんだろう、って思う日がない事がない。
障害と向き合ってない訳では無いけど、奪われたものの多さに、生きている意味まで失ってしまったら……?

こんな自分が生きているより、母に長生きして欲しい。
たくさん迷惑かけてるのは自分なので
自分が居なくなれば、負担も減るのではないんだろうか。

20代の頃は挫けそうなことがある度使っていた「死にたい」という言葉が
今、