ダンスとは、人生とは、文化とは、俺のやりたいこととは・・
と深く考え始めて早一年以上。
かなりの時間と経験と推敲をかけてようやく整理でき始めてきました。
つまりは、ダンスにしろ、音楽にしろ、数学にしろ、論理にしろ、
ファッションにしろ、話し方にしろ、人間関係にしろ、
すべて深いところで繋がってる。つなげて考えることができた。
今の俺はもう昔のように、ダンスや数学には依存していないし、
依存することで、自分や自分の感性(周りの対象に対する)から現実逃避する事が
自己否定の根本にあることに気づいた。
自分と自分の周りには、素直と(欲ではない)愛を。
自分の中身には「構造」を、「感性」と「表現」の追求を。
そしてsemanticsがあって、syntaxがある。という観点を。
そう考えたら、このブログをはじめたときに比べて、随分整理できた方だと思った。
文化や芸術を、「感性」と「表現」で説明すること。
文化と社会をSyntaxとsemanticsと捕らえる事。
感情と「倫理、観念の中の命題」をヾ
世の中の色んなところには「定式化」という人間に依存した、「言語化」「論理化」
みたいなのが行われている。
それは時には「定義」といわれたり、「固定観念」と呼ばれたり、
「洗脳」と呼ばれたり、「常識」と呼ばれたり、「社会」と呼ばれたり、
「科学」と呼ばれたり。
人間が何かについて考える(推論する)時って言うのは、
頭の中で何かについて受けた「感覚」って言うのを定式化しなくちゃいけない。
この定式化って言うのが曲者で、
他人との意見の交流の際とかに、わだかまりが生まれるのはすべてこのせい。
定式化した上での、それぞれの対象の「定義」に違いがあると気づかないで
色んないわゆる「話の食い違い」が起こってる事。
定式化する上での「命題」のvalueの違いがポジションに依存しているものだと
気づかないで、色んないわゆる「話の(略
命題を定めた上での、メジャー「価値観」の違いが原因で
いわゆる「話(略)・・の食い違いが起こっていると気づかない人。
すげー適当に書いたけど、何かを話し合ったり考えあったりする時に
起こる食い違いっていうか、まぁそういうのは一体、何に起因してるのって言ったら
大体この三つくらいな気がする。
具体的に、これらのどこに起因しているかを気づける人が
「論理性」のある人。って言われている人だと思う。
(よく企業が言ってる「論理的な考え、話」ができる人とか言うのは、
本当に↑こういう事を分かって、企業側が表現してるのかが気になる。
言わせてもらえば「論理的な考え」って事を論理的に定義してほしいし)
まぁ人間、思考を言語化するときに大体こういう曖昧性を含んじゃってるから、
表現・解釈の際にめんどくさい事が起こるわけだけど、
それが「言語化の問題」ですむ場合ってのは
(つまり、うまい事言いまわせばそのあいまい性ははある程度解消できる場合って言うのは)
それを自分自身で分かっている場合のみ。
一番上の場合のみ。
二つ目の「ポジション」ってのはまぁ相手が
まぁ物の見え方はポジションによるって事を知っている位の頭のよさだったらよす。
ある程度は言語的に表現・解釈できる。
「価値観」ってのは、言語化するの自体がすごい難しいし、それゆえ
表現・解釈するのがすごい難しい。
分かりやすく言えば
「~~は~~だ。だから~~である。」って言うのが
人間が生きてく上で一番よく使う定式化された命題。
こういう風にClassify(?)しないと、そもそも推論できないからね。
それは↑上に書いたようなものにに依存しているような曖昧な概念なわけ。
頭のいい人って言うのはどういう人か、悪い人ってのはどういう人かって言うのは
段々↑のような概念を使って説明できる気がしてきた。
(「定式化」っていうこと事態を対象に説明しているから、説明って言う単語で代役を立ててますw)
↑の文章で二つの文をつなげているのがいわゆる、「感性」
お、今気づいた。
上の文で言う「~は~だ」っていう部分について
「~の指す対象があまりにも大きい人」(あまりにも雑な定式化)、
「プリミティブに(localな)因果関係を考えて定式化できてない人」、
↑そしてこれを生み出す、何かからの情報を鵜呑みにしてしまうという観性。
こういう人が、「偏見」「頑固」「こだわりが強い」「プライドが高い」と言われている人だと思う。
そして「だから~である」に繋がる部分において、にちょっと変だなって部分がある人は
価値観が安定してない(そしてその事を自分自身分かっていない)人
というか、何に価値観を定めているか自分自身理解できていない人、
そして、さっきと同様、何かからの既存の情報を鵜呑みにしてしまうという観性。
だから何かを推論したり、もっと身近な状況では、何かについて意見を言うとき
既存の情報から推論された「意見」だろう、という人がとてもおおい。
でも社会においては、法律やマナーや、常識といった定式をその「既存の情報」としていく
のが社会の安定感としてはいい感じになってる(でもやりすぎると社会主義。)
社会の中で生きてく上で、それは確実に重要で必要不可欠な観念だと思うけど、
でもよく考えると、みんな気づいてないけど
「semanticsがまず最初にあって、その定式化としてsemanticsがある」
だから、本当の価値観は「既存の定式化された情報」からは生まれない。
芸術性や考え方で、自分に正直な感性を追及している人っていうのは
だからこそ尊敬する。
定式化されたそれではなく、自分にしかない「感性」を正直に追及している人は、
表現も追及できるから。
まぁこういう風に「感性」と「定式化」っていう事をよく考えれば、
文化でも、社会でも、芸術でも、何でも人間の「考え、意見、~と思う、~と感じる」
といった事が関わるすべての事象を、かなり論理的に説明できる気がする。
自分的には、馬鹿だとか頭がいいとか、話が伝わるとか伝わらないとか、
分かってるとか分かってないとか、
そういうのって、どうやって説明できるんだろうなって思ったから。
もっと言うと、定式化って言うのが「苦しみ」や
「依存(~なくてはだめ、~でなくてはだめという感覚)」とかなり密接に関わってる気がする。
その辺ももっともっと考えていきたい。