当日に書いて、下書きしたものをアップする。
今日は母の命日。
39歳だった母が乳がんで亡くなった日。
高校三年生だった私が1人で看取った日。
初めて救急車を呼び、初めて救急車に乗った日。
夜中に掛かりつけの国立がんセンターについて、先生は来なくて。
ずっと2人きりで処置室のような部屋で待たされて。
朝方先生が来て。
母が昏睡状態になっている事と、あと数日だという説明をされ。
もう母に医者が出来る事はなかったのか、何もしてもらえず。
あと数日と言われたその日に母は亡くなった。
入院用の個室ではなく、多分運び込まれた人用の殺風景な個室だった。
真冬に額に汗をかいて眠る母。
危篤だという連絡を母の弟にした。
叔父は東北に住んでいる。
連絡を受け、家族ですぐに東京へ向かってくれたが、間に合わなかった。
外は明るくなっていた。
気が付くと医者と看護師が個室に集まっていた。
私は母が逝ってしまう事を理解し、その瞬間がこのあとすぐに来ることを受け入れられず大泣きしていた。
個室の中は静かに、そしてバタバタしていた。
母はまだ生きている。
けれど、もうお別れが近付いている。
私は泣きながら慌ただしく動く医者たちを見ていることしか出来なかった。
思わず叔父に電話をし、「おじちゃん早く来て」と泣いた。
叔父は小さい子供たちと奥さんを乗せ、車で向かってきていた。
叔父に電話をしてすぐ、母は息を引き取った。
号泣する私と、間に合わなかった事を察した叔父が電話の向こうで泣いているのがわかった。
母と最後に交わした会話はハンバーグの話。
母の最後の言葉は「うん」。
昏睡状態になり、意識の無い母が最後に発した言葉は「あつい」。
個室の小さな窓からは、雲と青い空が見えた。
きれいな晴れの日だった。
色んな事が、わからなかった。
医者から呼ばれ、母ががんになってから亡くなるまでの事を説明をされた。
もう母はいないのだから、そんな説明どうでもいいと思って話を聞いていた。
だから医者の言っている言葉がなにひとつ理解出来なかった。
言われるがままに死亡届を書き、言われるがままに様々な手配をし、母の友人たちに連絡をいれた。
棺桶に、叔父が私の写真を大きく引きのばしたものを入れていた。
その時の自分の感情に名前がつけられない。
涙が出た。
「ママは〇〇がうまれたことが人生で一番の幸せだったと思う」
叔父にそう言われた。
葬儀場に母の遺影が届いた。
確認してほしいと言われ、大きな写真を見せられた。
私は遺影の写真を選んでいない。
叔父が選んだのだと思う。
遺影に使われたのは、私が中学を卒業した日に校庭で母と二人で撮影したものだった。
まだ病気になる前の、きれいで元気な母が、娘の中学卒業の日に娘の隣で嬉しそうに笑っている写真。
母だけ切り取られていて、遺影になっていた。
3年前なのに。
病気発覚から2年と少し。
あと2ヶ月で高校卒業だった。
「〇〇の成人式を見る事が出来ない」と言って泣いた母。
弱音を吐かない強い人だったけれど、余命宣告をされ、その言葉を言いながら初めて泣いていた。
成人式も、高校の卒業式も見せてあげられなかった。
遺影の確認をし、突然現実に引き戻された感覚になり、涙が溢れた。
母は亡くなったんだ。。
母は乳がんでした。
乳首から血が出て、近くの総合病院へ行きました。
検査の結果、がんでした。
セカンドオピニオンを受けましたが、やはり乳がんと言われました。
ピンポン玉ほどの大きさでした。
すぐに入院となりました。
抗がん剤、胸の摘出手術。
なくなった体中の毛。
黄疸で黄色くなった肌や眼球の白目。
肝臓に転移し、膨れていくお腹。
破裂したら死ぬと言われていました。
パンパンにむくんだ足。
家の手伝いを何も出来ない娘。
炊飯器も洗濯機も使えない娘。
掃除も料理も買い出しも、末期がんで体力の無い母が、亡くなる直前まで全てしてくれました。
最後の手料理はハンバーグ。
虐待やネグレクトを受けて私は育ったけれど、弱っていく母の姿を見るのは本当に辛かった。
母とテレビを見ていた時、母の頭に産毛しか生えていないのを見て、辛かった。
細くなっていく体と、大きくなっていくお腹。
あっという間に葬儀と火葬が終わりました。
骨を拾う時、骨の一部が黒くなっている事について、火葬場の人が
「骨に転移していると、その部分が黒くなります。。」と説明してくれました。
母が亡くなり、私の中で一番苦しかったのが遺品整理でした。
私は高校三年生だったので、祖母の家に引き取られる事になっていました。
祖母の家には私の部屋を用意してもらえましたが、実家の全てを持っては行けず、必要なものだけを残してあとは処分する事になっていて。
その為、悲しみに浸る暇もなく遺品整理の作業に取り掛かりました。
プラスチックの衣装ケースをあけると、母の洋服が沢山入っており、その全てを処分したのだけれど
一着一着に母の匂いがついていて、服を抱きしめては泣いて、泣きながら捨てていく作業をひとりで行いました。
殴られ、蹴られ、引き摺りまわされ、味噌汁や水をぶっかけられ、部屋やモノを破壊され、いつからか母の顔色ばかり見る子供になった私。
母に本音を言えない子供だった私。
母に甘えられなかった私。
母はいつも怖かった。
押入れをあけると、子供の頃に保育園や学校で作った作品が全て保管されているのを見つけ、わけがわからずまた泣きました。
とてもとても小さかった頃、一度だけサンタさんに手紙をもらいました。
私はすごく喜んで、母はそんな私を見て「良かったね」とニコニコしていて。
幼かったけれど、その記憶はあって。
その時にサンタさんから貰った手紙も出て来て。
読んだら母の字で。
苦しくて
泣きながら全てを捨てました。
限界で
なにも受け入れられなかった。
残しておくと苦しくなるから、処分することで
現実のすべてから逃げる道を選びました。
母の娘だなといつも実感することは、骨格や髪の質がそっくりなこと。
ほくろの位置が同じこと。
声が似ているところ。
自分の名前を自分で呼ぶと、母に呼ばれている気持ちになります。
母宛に家電にかけてくる友人たちも、よく私と母を間違えていました。
娘は
今しあわせだよ。
心配しないでね。