Noah(31)
「ふふっ、どうやら思い出したようね。なぜなの? なぜ、こんな愚かな人間どもに、情けをかけるの? こいつらなんか、勝手に憎しみ合い、殺し合い、自滅すればいいじゃないのよ。その方が、手間が省けていいのにさ」
「手間? それはどういう意味なの? それにルナ。あなたはなぜ、人間の世界に来られたの? まさか……」
「質問が多いわね、ノア。私は族長から、ある重要な使命を受けて人間の世界にやって来た。そして偵察中に、偶然あなたのパルスを察知したの。そしたら、翼を失ったあなたが空を舞っていた。それにしても、あなたは運がいいわ。これはまさに奇跡よ。おかげで、どうにか人間として死ぬ運命からは、逃れられたようね」
「どういうこと? ルナ、あなたが、助けてくれたんじゃなかったの?」
「ふふっ。そう言いたいところだけど、残念ながらそれは違うわ。覚醒したのよ。あなたの体の中に流れる、ガルーダの血がね」
「ガルーダの血……」
舞子はそう呟くと、そっと自分の白い腕を見つめた。
そして記憶の糸を必死で手繰り寄せ、その言葉の意味を思い出そうとした。
ガルーダ帝国。
そうだ。それは、人間が住む世界の、天空に存在する空中の島国だ。
舞子はようやく思い出した。
ガルーダの国内では今、不穏な空気が流れていたのだ。
今まで、決して人間には気づかれることがなかった、下界とガルーダ帝国の狭間にできた時空の亀裂―
それをついに、人間に発見されてしまったからだ。
そうなると、このままではいつ、人間が戦争を仕掛けてくるか分からない。
そんな懸念をめぐって、世論は真っ二つに分かれた。
あくまで平和的解決を望み、人間との共生を唱える穏健派、そして人間は滅ぼすべきだと唱える強硬派―
「ルナ。ま、まさか。あなたが人間界を偵察しにきたっていうことは、ついにガルーダは……」
「ふっ」
ルナはほくそ笑むと、その問いには答えようとしなかった。
「ルナ、教えて。どうなの?」
舞子は気になって、しつこく聞き返した。
しかしルナは、はぐらかすように言った。
「そんなことよりノア。あんたこれから、どうするのよ? ガルーダに戻って裁きを受けるの? それとも」
「それとも?」
「あんたが大好きな、この人間どもの世界に戻る? 力もなく、美しい翼も持たない、この醜いだけの下等動物たちの世界へ」
ルナは吐き捨てるようにそう言うと、転がっている矢野の体に蹴りを入れた。
「何をするの? この人は決して、醜い下等動物なんかじゃない」
舞子はそう叫ぶと、思わず倒れている矢野に飛びつき、その体をかばっていた。
「この人は私や、子供たち、そして大勢の人たちを救うために命を賭けた。私はもういい。ガルーダなんかに戻らなくていい。こんな翼もいらない。私は人間が好きなの。刑務所の仲間たち、そして神父さんや、子供たち。それに良介さん。皆が大好きなの。確かに皆、私たちに比べれば、弱くてもろい存在なのかもしれない。そして、過ちもたくさん犯すかもしれない。だからこそ私は、皆に気づかせてあげたいの。誰だって心に、希望という翼を持てるんだっていうことを。だから、私には翼なんか、翼なんか必要ないんだわ」
舞子はそう言うと、いとおしむように、矢野の体に頬を擦り寄せた。
「ははははっ。ばかみたい」
ルナはその様を見て、大声で笑った。
しかしその時―
突然、矢野の体が白い光に包まれると、ゆっくりと仰向けの姿勢のまま、宙に浮かんでいった。
「そ、そんな。ばかな……」
ルナはその光景を見ると、急に表情を強張らせ、恐れおののくように後ずさりした。
舞子も何が起きたのか理解できず、呆然と、矢野の様子を見つめていた。
すると矢野の背中から、黒く大きな翼が、ゆっくりと生え始めた。
「ま、まさか。矢野さん、あなたはガルーダ?」
舞子は思わず呟いていた。
すると、矢野はゆっくりと目を覚ました。
「こ、これは。俺はどうなったんだ? ま、舞子?」
矢野も、自分の体に何が起きているのか理解できず、宙に浮かんだまま、呆然と自分の体を見回した。
「ち、違う、違う。こいつは、こいつは断じて、ガルーダではないっ」
ルナは狂ったように叫んだ。
それを見て舞子は、とっさに危険を察知した。
「矢野さん、飛んで。思い切り、翼を羽ばたかせるの。早く逃げてっ。早く」
「あ、ああ」
矢野は戸惑いながらも、ゆっくりと翼を羽ばたかせると、そのまま体を直立させ、天高く飛び上がった。
「逃すかっ」
ルナもそれを見て、翼を羽ばたかせると、矢野を追ってまっすぐに飛び立った。
「やめてっ、ルナ」
舞子も翼を羽ばたかせると、その後を追って飛び立った。
そして空中で、まさに矢野に飛びかかろうとしていたルナを発見すると、猛スピードで背後からその体に飛びつき、羽交い絞めにした。
「放せ、ノア。放せっ。こいつは危険すぎる。生かしてはおけぬ。絶対に……」
ルナはすさまじいスピードで体を回転させると、遠心力で、舞子の体を振りほどこうとした。
しかし舞子も必死で、その体にしがみつき、放さなかった。
「矢野さん、早く逃げてっ。私のことはいいから、早くっ」
舞子は、上空に留まって、自分たちの様子をじっと見つめていた矢野に向かって、大声で叫んだ。
そして渾身の力を込めると、回転したままルナの体を押さえこみ、地上へ向かって急降下していった。
「な、なんて。なんて力なの……」
ルナはもがきながら、驚愕の声を上げた。
そしてそのまま二人は、猛スピードで垂直に降下し続けると、やがて大海原へと突っ込んだ。
すると、空まで突き上げるような水柱が一瞬上がり、二人の姿は忽然と消滅した。
(つづく)