Noah(26)
矢野が抱えていた箱は虚しく地面に転がり、中から無数の白い羽が周囲に散らばった。
そしてそよそよと風に吹かれ舞い上がると、やがてどこかに消えていった。
矢野は、霞み始めた瞳を必死で凝らし、自分の顔を覗き込む男の顔を見つめた。
それは西脇だった。
さっき殺したはずの西脇が、ブローニングを手に、矢野の前に立っていたのだ。
西脇はふーっとため息を吐くと、矢野の側にしゃがみ込み、憐れむような眼差しで矢野の顔を覗き込んだ。
「やれやれ。ボディアーマーを着ていたんで助かったよ。至近距離で撃ってくれたおかげで、ダメージは相当受けたがね。それにしてもお前らしくないね。他人にうつつなんぞぬかすから、このザマだ。まあ、義理だの道理だのと、甘っちょろいことを言っていたおまえらしい結末ではあるが……」
「こ、これは、藤堂の差し金なのか?」
矢野は息もたえだえに問い掛けた。
「ふっ。冥土の土産に教えてやるよ。藤堂の野郎はな、お前が脅しをかけたんで、かんかんに怒っちまってよ。深沢舞子だけでなく、あの女が大切にしているもの、全てを奪えって、オファーをかけてきたのさ。しかも残酷な死を与えろとな。ふふっ、あいつはな。飛行機ごと、あの女と子供たちを、爆弾で吹っ飛ばす計画なのさ。あいつは狂ってる。もう誰にも止められねえ」
「ま、まさか、MCBを……」
「そうよ。組織が開発してきた、マイクロチップ型小型爆弾を、実験として今回の仕事に使うのさ。ふふっ、ついでに面白いことを教えといてやろう。あの爆弾をどこに仕掛けたと思う? ひひひっ、あの女の腕時計さ。ちょこっと施設に忍び込んで、床に置いてあった腕時計に、まんまと仕込んでやったのさ。造作ない仕事だったよ。気の毒にな。面白いショーが見れなくてよ。おっと、もうそろそろお別れだ。俺はこれから、さっきの幸せそうな、あの男を始末しなきゃなんねえからな。あばよ。まあ、成仏しな」
そう言うと、西脇はブローニングの銃口を矢野に向けた。
ブシュッ。
次の瞬間、鈍い音が響き渡ると、熱い衝撃が矢野の胸に突き刺さった。
すると鋭い痛みが一瞬全身を駆け廻り、矢野は背中を大きくのけ反らせた。
終わりか―
ぼんやりとそう思った。
そして視界から、背を向けた西脇の姿が、ゆっくりと遠ざかっていった。
だが妙だった。
まだどうにか、手足が動かせたのだ。
どういうことだ?
矢野は気になって、右手で胸の辺りをまさぐった。
すると、硬いものが手に触れた。
それは胸ポケットの中だ。
矢野はそっとポケットに手を入れると、それを引っ張り出してみた。
「ど、どういうことだ?」
見ると、舞子がくれた白い羽に、弾丸が突き刺さっていた。
羽がダメージを和らげてくれたのだ。
すると、羽に刺さっていた弾丸が、ぽろりと落ちた。
矢野はそれを見て我に返ると、慌てて右手であちこち地面を探るように動かし、落ちていたリボルバーを手にした。
そしてそっと上半身を起こすと、遠ざかっていく西脇の首筋に照準を合わせた。
願いを込めて、両手でしっかりグリップを握る―
そして力強くトリガーを引いた。
ボツッ。
確かな手ごたえを感じると、西脇が首筋を両手で押さえ、そのままばたりと倒れた。
矢野はそれを見て安心すると、右手からリボルバーを落とした。
だがこうしてはいられなかった。
矢野は渾身の力を込め、ゆっくりと立ち上がると、感覚がなくなりかけて、錘のようになった両足を懸命に引きずり、一歩一歩前へと進んだ。
「舞子、舞子……」
矢野はうめき声を上げながら、着実に前へと進んでいった。
そしてどうにか、空港の入口へとたどり着いた。
しかしすでに、全身の感覚はなくなりつつあった。
おぼつかない足取りで、入口から中へ入ると、矢野は大勢の客でごった返しているコンコース内を、ふらふらとさまよい歩き、舞子の姿を探し求めた。
するとその時、微かに舞子と子供たちの話し声が耳に入ってきた。
「十三時三十分発、ホノルル行きサンライズ航空311便にご搭乗のお客様……」
アナウンスがこだますると、矢野はすでに霞んで見えなくなっていた瞳を、必死になって凝らし、周囲を見渡した。
すると、エスカレーターでターミナルへと上がっていく、舞子たちの姿がどうにか見えた。
「ま……舞子っ」
矢野は渾身の力を込めて叫んだ。
すると舞子は矢野に気づき、はっとこちらを振り返ると、嬉しそうに右手を振った。
矢野は心配をかけてはなるまいと、とっさに笑顔を取り繕っていた。
そして薄らいでいく意識を必死で覚醒させると、震える指で自分の腕時計を指し示し、舞子に最後のメッセージを残した。
舞子はきょとんとした顔で、じっと矢野を見つめたまま上昇し、やがて視界から消えていった。
そのとたん、全身から一気に力が抜け、矢野はがくっとひざまづくと、うつ伏せに倒れた。
「お……俺はとうとう、矢野圭二に生まれ変わることはできなかった。妹を……舞子を、子供たちを守ってやることができなかった。
ああ、神よ。もしあなたが、本当にいらっしゃるのなら、どうかお願いです。最後に、最後に、奇跡を……」
そう呟くと、矢野は息絶えた。
そしてその左手から、ずっと握りしめていた白い羽が、ぽろりと落ちた。
するとそれは、まるで生き物のようにゆらゆらと宙に浮かんで、やがて空高く舞い上がっていった―
(つづく)