Noah(23)
「大丈夫ですよ。ヤマは超えました。意識も戻りましたから、抗生物質を打って治療すれば、二日ほどで退院できますよ。じゃあ、お大事に」
担当医はそう言うと、表情を一変させ、今度は笑顔を舞子に向け一礼すると、そのまま立ち去っていった。
それを見てほっと安堵したとたん、今まで張りつめていた全身から、一気に力が抜け落ち、舞子はへなへなと長椅子に座り込んでいた。
そうだ―
ふと我に返り、顔を上げ「ありがとう」と、矢野に声を掛けようとしたが、その時すでに、彼の姿はそこにはなかった。
舞子は気を取り直すと、腰に力を込めて再び起き上がり、ゆっくりと良介の病室へと歩いていった。
そしてドアを開け、そっと中へ入った。
すると、舞子の姿を見るや否や、良介は慌ててベッドから上半身を起こして、彼女を迎え入れた。
舞子はそんな良介の側に近寄ると、優しくその右手を握った。
「ばかね、良介さん。死んだらどうするのよ?」
「迷惑かけたな。舞子」
良介はそう言うと、申し訳なさそうに笑った。
「いいのよ。私こそごめんなさい。それよりこれ、あなたの手で私の指にはめて」
舞子はそう言って、オパールの指輪を差し出した。
「じゃ、じゃあ?」
良介が恐る恐る問い掛けると、舞子はにこっと笑って頷いた。
「ありがとう、舞子。俺、絶対に君のこと、幸せにするから」
良介は急に目から嬉し涙をこぼし始めると、指輪をそっと、舞子の左手の薬指にはめた。
その様子をドアの隙間から見つめながら、神父は満足そうに笑って頷いた。
舞子の出生の謎を解くための手がかりを求めて、矢野ははるばる古都まで車を乗り付けていた。
そして老人養護施設「清風苑」を訪れた。
舞子はここで、あの不思議な白い羽を授かったと言った。
もしかしたら、お沙世ばあさんは、他にも何か手がかりを残してはいないだろうか?
ふとそう思った矢野は、無駄足になるかもしれないが、とにかくここを訪れずにはいられなかった。
矢野は、養護施設の白い建物を見つけると、駐車場にゆっくりと車を停め、そっと降り立った。
そして建物に近づいていくと、玄関のドアを開け、受付にいた女性の事務員に
「深沢沙世の孫です」と名乗り、二階の祖母がいた部屋へと、案内してもらった。
「以前、妹がこちらへお伺いした時に、祖母の書きかけの手紙を遺品に頂いて帰りましたが、その他にも何か祖母が遺した物はなかったでしょうか? いや、物でなくてもいいんです。たとえば、何か重要な話を聞かれてはいませんでしたか?」
矢野は事務員に、単刀直入に聞いてみた。
すると、彼女は首を捻って答えた。
「いえ。あの手紙以外には何も残っていませんでしたし、生前変わったことも、特にはお聞きしてないですね。もしかすると、このあやめさんが何か聞いてたかもしれませんが……」
「あやめさん?」
矢野は、部屋の片隅のベッドで眠っている老婆を、しげしげと見つめて呟いた。
するとあやめは、その声に反応して目を覚ますと、何やらもごもごと呟き始めた。
「あら、あやめさん起きたの? お客さんよ。ほら、あのお沙世さんのお孫さんよ」
事務員が、子供をあやすような口調で話し掛けると、あやめはいきなり「おおっ、お沙世さんや、お沙世さんや」と矢野に向かって手を合わせ、拝み始めた。
「このあやめさんは、お沙世さんとすごく仲良しだったんですよ。でも今じゃあ、痴呆が進んでこの有様なんです。ああ、そろそろ下に戻らないと。お力になれなくてごめんなさいね」
そう言うと、事務員は慌てて階段を下りていった。
その時だった。
あやめが呟いた。
「翼だ。翼だ。お前は心に翼をくれた……」
「えっ? 何? 何ですか? おばあちゃん、何かお沙世ばあさんから聞いたのかい? なあ、知ってるなら教えてくれ。頼む。頼むよ」
矢野は興奮して、ついあやめの両肩を掴むと、軽く揺さぶって何度も懇願した。
するとあやめは、虚ろな目で、そっと自分のベッドの下を指差した。
「この下? この下に何かあるのかい?」
矢野の質問に反応して、あやめはこくりと頷いた。
それを見て、矢野は即座に身をかがめると、ベッドの下に手を入れ、あちこちまさぐった。
すると何かが手に触れた。
慌てて引きずり出して見ると、それは白い紙箱だった。
矢野は箱を、部屋の隅にあった小テーブルの上にそっと置くと、恐る恐る蓋を開けた。
すると中には、無数の白い羽が、ぎっしりと詰まっていた。
どうやら、舞子が持ち帰った羽と、同じ種類のもののようだった。
「一体何なんだ、これは?」
よく見ると、羽の上には、一通の封書が置いてあった。
矢野は急いでそれを手にすると、封を乱暴に開け、中の手紙を取り出した。
そして恐る恐る広げると、ゆっくりと目を通した。
すると読み進めていくうちに、その衝撃的な内容に、全身が震え始めていた。
「そ、そんなっ。こんなことが信じられるか……」
矢野は手紙を読み終えたとたん、思わず声を張り上げた。
(つづく)