Noah(22)
舞子は気が動転して、大声で叫んだ。
「良介さん? しっかりして。しっかり」
舞子が両手で体を揺り動かしても、良介は荒い息を吐き続けるだけで、何も喋らなかった。
どうやら良介は、朝まで舞子が来るのを、公園で待ち続けていたようだ。
「良介さんのばかっ」
舞子は泣きながら良介を抱きしめた。
「神父さん。救急車を呼んだ方がいい。どうやら、肺炎を起こしているようだ」
矢野が冷静な態度で言った。
やがて神父が呼んだ救急車が到着すると、中から救急隊員が担架をかついで降りてきて、良介の容体を確認した。
「こりゃ、ひどいな」
救急隊員は一言呟くと、良介を抱きかかえ、担架にそっと乗せた。
そして急いで救急車に担ぎこむと、「付添いの方、どうぞ」と声を掛けた。
その声に触発され、舞子ははっと我に返ると、慌てて救急車に乗り込んだ。
すると神父と矢野も、その後を追うように、救急車に乗り込んだ。
それから救急車が発進し、病院に着くまでの間、舞子はずっと泣き続けていた。
こうして救急車が市立病院に到着すると、すぐさま良介は集中治療室に運ばれた。
病院の廊下で、舞子は長椅子に腰掛けると、じっと良介のことを案じ続けた。
するとそんな舞子の側に、矢野がそっと近寄ってきた。
その矢野の顔を見上げると、舞子は不思議と、安らいだ気持ちになった。
「矢野さん。良介さんを助けてくださって、ありがとうございました」
舞子が一礼すると、矢野はにこりと微笑んで、小さな箱をそっと差し出した。
舞子はそれを受け取ると、恐る恐る蓋を開けてみた。
すると、中にはオパールの指輪が入っていた。
それを見たとたん、やっと乾きかけていた舞子の瞳から、再び涙が流れ出た。
「あいつ、君にこれを渡そうとしていたらしい。ずっと右手に握りしめていたよ。なあ、舞子。もういい加減に、自分の幸せに目を向けてもいいんじゃないのかな? 君はもうさんざん苦しんだ。十分すぎるほどな。これからは、もっと自分に素直に生きろよ」
矢野は、舞子に優しい笑みを向けて言った。
「矢野さん。やっぱりあなたは、私のお兄さんだったのね? あの小切手もあなたがくれたんでしょう? 隠さないで」
舞子はそう言って立ち上がると、そっと矢野に寄り添った。
矢野は戸惑った。
だが、舞子の優しい温もりに触れたとたん、いとおしさが込み上げてきてしまい、つい本当のことが口をついて出てしまった。
「そうさ。君の言う通り、俺は君の兄、矢野圭二さ。今は国武徹也と名乗っているがね。だが正直、俺は戸惑っているんだ。俺には確かに舞子という妹がいた。しかしその舞子は、生まれてすぐに亡くなったはずだ。一体、君は誰なんだ? お沙世ばあさんに育てられたそうだが、ばあさんとは一体どこで知り合ったんだ? 覚えてないのか?」
矢野の意外な告白に、舞子は愕然として、つい後ずりしてしまった。
そして両手で頭を抱えると、その場にうずくまった。
「そ、そんな。私は本当の、深沢舞子じゃないの? 私も前々から変だとは思っていた。子供の頃の記憶が全く消えてしまって、断片すら残っていないなんて。そんなことって、普通はありえないと思っていた。だとしたら、私は一体誰なの?」
苦悩する舞子の肩に、矢野はそっと手を置いて慰めた。
「もういいじゃないか。過去なんか忘れたままでさ。これからはあの良介と一緒になって、幸せになれよ。確かに俺とお前には、血のつながりはないかもしれない。でも戸籍上では本当の兄弟なんだ。だから、俺はお前に幸せになってもらいたい。俺は国武徹也として生まれ変わり、今まで汚れた裏社会で生きてきた。だがこうして今、お前と出会うことができて、昔の矢野圭二を取り戻せそうな気がしてきた。もう、とうに諦めていたはずなのにな。だから頼む。俺の分まで、幸せになって欲しい」
そう告げると、矢野はそっと舞子に背を向け、立ち去ろうとした。
「待って、お兄さん」
舞子は矢野に追いすがると、ハンドバッグから、祖母の形見の白い羽を取り出し、そっと手渡した。
「これを私だと思って、お兄さんに持っていて欲しいの。これはおばあちゃんから貰った、大切な形見なんだけど、ぜひお兄ちゃんに持っていて欲しいの。お願い」
矢野はその羽を手に取ると、しげしげと眺めた。
そしてにこりと微笑むと「分かった」と言って頷いた。
その時だった。
羽が突然、白い光を放ち、矢野はまぶしさのあまり、思わず瞳を閉ざした。
「どうしたの?」
舞子が心配して問いかけると、矢野は「何でもない」と言って、慌てて平静を取り繕い、羽を上着の胸ポケットに仕舞い込んだ。
どうやら舞子には、今の光が見えていなかったようだった。
その時、矢野は直感で悟った。
この羽には、何かとてつもない秘密が隠されていると。
そこで矢野は、舞子に問い掛けた。
「不思議な羽だな。これは一体、どこにあったんだ?」
「おばあちゃんが入居していた、古都にある老人養護施設よ。おばあちゃんは私に『真実を告げる時が来た』って、謎めいたことを書いた手紙を残していたの。でも書いている最中におばあちゃんが亡くなってしまったんで、文章が途切れていて、その意味は未だに分からずじまいなの。その羽は、その手紙と一緒にあったのよ」
「真実?」
矢野がぽつりとそう呟くと、ほぼ同時に、病室のドアが開いた。
そして中から、険しい表情で、担当医が出てきた。
舞子はそれを見るや否や、急いで彼の元へと駆けていった。
(つづく)