Noah(13)
頃合いを見計らって、神父はそっと教室へ入ると、琢己の肩を優しく叩いて、「立派だぞ。琢己」と言った。
国武は、まるで負け犬のような惨めな気持ちになり、そのまま姿を消そうと思ったが、すかさず神父が「市立大学の矢野さんが来てますよ」と自分のことを舞子に紹介したので、やむを得ず教室内に踏み入った。
「あっ、ああ。私、矢野圭二と申します」
国武は動揺し、つい自分の本名を名乗っていた。
すると舞子は、はっと驚いた表情で「矢野圭二さん……ですか?」
と聞き返した。
「えっ? ええ。早瀬教授の助手をしております。例の羽の件でまいりました。な、何か?」
国武は舞子の様子にぎくりとし、つい口ごもってしまった。
「い、いえ。知り合いの人に、同姓同名の人がいたもので、つい……わざわざすみません。明日にでもこちらからお伺いしようと思っていましたのに。で、結果は? どんな鳥の羽だったんですか?」
国武は電話を盗聴して、舞子が羽について調査を依頼していたことを知っていたので、今日大学を訪れ、舞子の兄だと偽り、早瀬教授から結果を聞きだしていたのだ。
国武は早瀬教授の言葉を思い出しながら、スーツの懐から羽を取り出し、深呼吸をして気を落ち着かせると、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「この羽の組織検査をしてみたのですが、とんでもないことが分かりましたよ。この羽には細胞がない。つまり、動物の物ではないということです」
「動物の物ではない? じゃあ、何の……」
舞子が目をぱちくりさせながら問い質すと、国武は悪戯っぽく笑い、「作りものですよ。ただのね」とさり気なく答えた。
舞子はそれを聞いて、がくりと肩を落とすと、「そうだったんですか。ごめんなさい。お手を煩わせてしまって」と言って、頭を下げた。
「いや、いいんですよ」
国武はそう言って、羽を舞子に渡すと、すぐさま引き返そうとした。
するとその時、ふと床に置かれていた、作りたての天使の彫像に目が行った。
そして目を凝らしてその顔を見たとたん、「ああっ」と、驚愕の声を上げた。
寝そべりながら、両手で頬づえをつき、微笑んでいる天使。
その安らかな顔は、夢にまで見る、あの優しい母親の顔そっくりだったのだ。
「まさか」
国武はうろたえながら、じっと舞子の顔を見つめた。
その様子を見て、舞子は訝りながらも、微笑んで「その天使がどうかしましたか?」と尋ねた。
「い、いえ。私の知っている人にそっくりだったので、つい」
国武がそう答えると、舞子も驚いて「まさか」と呟いた。
「その天使は、私がおばあちゃんから見せてもらった、古いお母さんの写真を思い出して彫ったものです。おばあちゃんから聞かされていました。まだ私が幼い頃に行方知れずになった、矢野圭二という兄がいたことを」
「じゃあ、深沢っていうのは?」
「母の旧姓です。私は両親が亡くなった後、母方の祖母に引き取られましたから」
「亡くなった? いつ?」
それを聞くと、国武の顔面から、血の気が引いていった。
「分かりません。私、小さい頃脳炎にかかって、高熱で昏睡状態になったことがあって。目覚めたら記憶を無くしていたそうです。ですから記憶は残ってないんですが、おばあちゃんの話では、バルガン人民共和国からアメリカに亡命してきた兵士がいて、その人がヤノケイジと名乗る男に会ったと、証言していることが分かって。
それでその兵士に会えば、兄の消息に関する手がかりが掴めると思い、アメリカへ行こうとしたんですが、乗っていた旅客機が墜落事故を起こしてしまって、それで帰らぬ人になってしまったんです」
国武はショックのあまり、一瞬顔をひきつらせた。
しかし、込み上げてくる悲しみを必死で堪えると「そうだったんですか」と、冷静を装って答えた。
「あのう。もしかして、あなたはお兄さんじゃあ?」
そう戸惑いながら問いかけてきた舞子を「まさか」と一笑に付すと、国武はついに堪え切れず、涙がこぼれ出たのを隠そうと、「じゃあ、これで」と言って、慌てて施設を飛び出した。
「何てことだ」
悲しみのあまり、自分の意思に反して目から滴り落ちる涙が、国武には煩わしかった。
もうとっくの昔に、自分は一度死んだ身なのだ。
いまさら、過去の遺物を懐かしんで、何になるというのだ?
畜生、畜生―
心の中で、自分にそう言い聞かせるが、所詮それは虚しい努力だった。
自分の心の奥底に、両親への想いが、深く根ざしていたのは紛れもない事実だった。
そして自分が今まで、頑なにポリシーを貫き通してきたのも、そんな両親への想いがあったからこそだった。
ふと気がつくと、国武は悲しみに打ちひしがれ、とぼとぼと街をさ迷い歩いていた。
すると暫くそうしているうちに、徐々にだが、国武は平静を取り戻してきた。
そしてふと立ち止まると、あることに気づいた。
さっきは突然両親の死を告げられて、動揺していたので気が回らなかったが、あの舞子という女は、間違いなく偽物だ。
確かに舞子という名の妹はいた。
しかしその妹は、産後間もなく、未熟児のうえ肺炎を発病して、亡くなってしまったはずだ。
確かに自分も深沢のおばあさんには、子供の頃可愛がってもらった。
おばあさんを懐かしむ様子から察するに、彼女の言っていることも嘘ではなさそうだ。
すると、国武の頭の中が、次第に混乱してきた。
だがたとえ偽物だとしても、不思議なことに、国武には彼女が他人ではないような気がしてならなかった。
そしてもう一つ。
国武にはひっかかることがあった。
さっき彼女は子供たちに言っていた。
「ある人の幸せを守るために、真実を口にすることはできない。でも自分を信じて欲しい」と。
その真実とは一体何なのだろう?
もしや舞子は、殺人犯ではないのかもしれない。
だとしたら、今度の仕事は筋が通らない。
真に標的となるべき人間は、彼女ではなく、別にいるということになるからだ。
国武は仕事に入る前に、まず真実をはっきりさせることが先決だと気づき、暫く施設に張りついて、舞子の行動を監視することに決めた。
(つづく)