Noah(12)
神父はそれを見て、更に深い溜息を吐いた。
どうやら、琢己が子供たちを扇動しているようだ。
琢己が異常なまでに暴力を憎むのも、彼の過去を考えれば致し方ないかもしれない。
神父は、気乗りのしない舞子を、さんざん引き止めておきながら、事態を収拾できない自分の無力さを恥じると、途方に暮れてしまった。
その日の晩、国武は七三分けのヘアスタイルに眼鏡、そしてタイトスーツといった出で立ちで、再び養護院の様子を観察しにやってきた。
そして「ごめんください」と玄関で声を掛けると、「どなたですか?」と神父が顔を覗かせたので、「市立大学の矢野と申します」と告げた。
神父が「はあ?」と首をかしげると、「私は生物学の早瀬教授の助手をしている者で、深沢舞子さんに鳥の羽の調査を依頼されましてね。今日はその結果をお知らせに来たのですが」
と声色を変えて事情を説明した。
「ああ。そう言えば、そんな話を聞いてます。まあどうぞ」
神父は思い出して頷くと、国武を施設に入れ、舞子がいる教室へと案内した。
すると、教室の中から話し声が聞こえてきた。
神父はふと立ち止まると、そっとドアを開いて、中の様子を窺った。
見ると、悲しげな表情で俯く舞子に、真理子が「本当なの? 本当なの?」と、必死で問い掛けていた。
そこへいきなり琢己が駆けてきて、神父たちには目もくれず、教室の中へと飛び込んだ。
「真理子、何してるんだ? 俺の命令が聞けないのか? この人には絶対に近づくなって、言っただろう」
琢己が怒鳴りつけると、真理子は泣きべそをかきながら、懸命に訴えた。
「私、絶対に信じない。舞ちゃんはいい人よ。悪い人なんかじゃない。そうでしょ? 舞ちゃん、何とか言って。お願い。あんなに可愛い天使さんを作る人が、悪い人なんかであるわけないもん。あの天使さんは、私たちのシンボルだもん」
しかし舞子は何も言わずに立ち上がると、教室を出ていこうとした。
その様子を、琢己は辛そうに、じっと見つめていた。
真理子は舞子のひざにしがみつくと、「行っちゃやだ」とだだをこねた。
その様子を見て、国武はにやりとほくそ笑んだ。
「本当のこと、教えてくれなきゃやだもん。やだもん」
そう言ってしがみつく、真理子の腕の力強さに、舞子は衝撃を覚えた。
いくら足を動かそうとしても、びくともしない。
本当に、五歳の子供にこんな力があるのだろうか?
舞子は愕然として、その頑強さに心を打たれた。
自分を信じてくれるその力強さに、舞子は答えてあげなくてはならないと、一瞬決意した。
しかし、ふと良介の顔が脳裏をよぎると、その決意も鈍ってしまう。
「ごめんなさい、真理子ちゃん。私なんかのために、こんなにまでしてくれて。でも私はね。ある人の幸せを守るために、真実を口にすることはできないの。許してね。でも、信じて。私のこの瞳を……」
舞子は涙を滴らせながら、優しい眼差しを真理子に向けた。
すると真理子は、その瞳の美しい輝きを見てにこりと微笑むと、大きく頷いた。
「うん。信じる。真理子は信じるよ」
琢己もその瞳の輝きに、失いかけていた希望を、見出したような気がした。
信じようとしていた、美しくて純粋なものが、今確かに、その瞳には宿っている。
不思議と、そう感じたのだ。
「お、俺も信じるよ。舞ちゃん。俺も。舞ちゃん、頼む。ずっとここにいてくれ。そして俺たちのために、天使の象を作ってくれ」
そう言い終えると、琢己の目からも、涙が滴り落ちた。
「ありがとう」
舞子は二人を振り返ると、そっと涙を拭って微笑んだ。
「そんな、ばかなっ」
国武は心の中でそう叫ぶと、衝撃のあまり、全身を震わせていた。
子供たちの、舞子に対する憎悪を煽り、殺しに利用しようと考えていたが、作戦は見事に失敗した。
しかし全身の震えは、作戦が失敗したことへの悔しさからくるものではなかった。
あっさりと二人を心変わりさせてしまった舞子の、瞳の輝きの力を畏怖したのだ。
瞳―
美しく純粋なもの。
そんなものが、この世にあるはずがない。
否、そんなものの存在など、受け入れられなかった。
それを受け入れたら、自分が今までやってきたことが、全て罪悪となり、自分を一生涯、苦しめることになるだろう。
この世にあるものは悪のみだ。
そして悪が見せかけの正義を作りだし、この世を裏で牛耳っている。自分はその歯車の一つ。
つまり、必要悪なのだ。
国武はそう信じて生きてきた。
否、自分にそう信じ込ませなければならなかったのだ。
自分を必要悪と信じるからこそ、平然と生きてこれたのだ。
それ故に、筋の通らぬ殺しは絶対に受けないというポリシーを、ずっと貫き通した。
中には、金さえ手に入れば、道理のあるなしにかかわらず、見境なく仕事を引き受ける連中もいた。
だから国武は、そんな連中からは煙たがられていた。
しかし国武は絶対に屈しなかった。
そのポリシーこそが、自分が人間であることの、最低限のプライドであったからだ。
そしてそれを守ることは、この国で生きているであろう、「曲がったことは大嫌いだ」と言うのが口癖だった、優しかった両親に対する、せめてもの親孝行だと思っていた。
だが舞子の瞳を見たとたん、国武の中で今まで信じてきたものが、否、信じ込もうとしていたものが、ぐらぐらと音を立てて、揺らぎ始めたのだった―
(つづく)