Noah(8)
果たして、子供たちは自分の素性について知らされているのだろうか?
あの様子では、恐らく神父は事実を伏せているに違いなかった。
あの無邪気で愛らしい真理子の笑みを見て、舞子は胸が痛くなった。
自分たちが慕う、あの天使の像を彫った女が、手を血で汚した犯罪者だと知ったらどうなるだろう?
自分は子供たちに、どんなに蔑まれても構わない。
でも、あの子供たちの純粋な夢を汚すことだけはしたくなかった。
舞子はそんなことを思うと、胸が張り裂けそうになるくらい、悲しくなった。
だが決意しなければならなかった。
自分はここに長居してはならないと。
一刻も早く仕事を済ませ、真実が明るみにならないうちに、ここから姿を消そう。
舞子は、それが自分や子供たちにとって、最善の道なのだと、その時悟った。
翌日から、舞子は作業を開始した。
まずは樹に墨で輪郭を引き、不要な部分を鋸で切り落とす作業からである。
舞子は樹に、モチーフを参考にしながら、聖母マリアの輪郭を丹念に引き始めた。
久しぶりの作業に胸がときめいた。
ところが、いざ鋸を引く段階になって、ふと昨夜のことが気にかかった。
つい子供たちが、自分を軽蔑の眼差しで見つめる姿が脳裏をよぎった。
すると、鋸を引く手に力が入らなかったり、力をかけすぎたりして、気づいた時には、何度も失敗を繰り返していた。
「何てことなの」
舞子は溜息を吐くと、道具を投げ出し、壁にもたれた。
焦燥感ばかりが募るが、どうにもならない。
彫像は表情が命である。
それには創作者の心が反映されてしまう。
自分が悩み、苦しんでいる状態では、そんな感情が誇張されてしまい、鑑賞する全ての人が共鳴する普遍的な美しさなど、到底表現できない。
途方に暮れ、舞子は方針状態で、ぼーっと天井を見つめていた。
ふと気づくと、いつしか日が暮れかかっていた。
やがて廊下から子供たちが騒ぐ声が響いてきて、舞子はようやく我に返った。
すると、がらがらと扉が開き、真理子が「お邪魔します」とはにかみながら顔を覗かせると、そっと他の子供たちを手招きして、中に呼び込んだ。
どうやら、作業を見学にきたようだ。
「舞ちゃん、天使さんできたの?」
真理子が人なつっこい笑みを浮かべながら、周囲をきょろきょろ見回した。
「ううん。まずはマリア様からよ。でも今日はちょっと調子がでなくって、失敗ばかりよ」
舞子はそう言って、肩をすくめた。
すると突然、真理子はもじもじし始め、何かを言おうとしたが、口をつぐんで俯いてしまった。
だが他の子供たちが「早く、早く」とはやし立てると、思い切って再び口を開いた。
「あのう。舞ちゃん。私たち、お願いがあるの。私たちにも天使さんの作り方、教えて欲しいの」
真理子はそう言って、ぺこりと頭を下げた。
すると他の子供たちも、それを真似て、ぺこりと頭を下げた。
思いもよらない申し出に、舞子は戸惑った。
「そうね。お姉ちゃんも、真理子ちゃんたちに教えてあげたいんだけど、樹を削る時にね、刀を使うでしょう。だから手を怪我したら大変だわ。真理子ちゃんたちが、もう少し大きくなったら教えてあげる」
舞子がそう言葉を濁すと、「やっぱりだめか」と、子供たちはがっかりしてうな垂れた。
「ごめんね。さあ、みんな。一緒に夕飯を食べましょう」
舞子はそんな子供たちを元気づけるように、皆の肩を優しく叩くと、食堂へ引き連れていった。
そして食堂に着くと、皆と一緒にテーブルに腰掛け、夕食に舌鼓を打った。
その時、後からそっと、隣に腰掛けてきた神父に、さっきのことを相談してみた。
するとそれを聞いた神父は、満足そうに頷いて言った。
「そうでしたか。やはり思った通りだ」
「えっ? どういうことですか?」
「いや、舞子さん。正直に話します。どうか、気を悪くなさらずに聞いて下さい。実はあなたに来て頂きたかったのは、彫像の他にもう一つ、理由があったからなのです。それはあなたに、子供たちの母親代わりになって欲しいという、私の一方的な願いだったんですが……」
神父はそう言うと、恐縮して、やや目を伏せた。
「母親? 私が? とんでもない。私みたいな汚れた女が」
舞子は悲しげな表情で俯いた。
「そんなことは、前にも言いましたが、もう過去のことですよ。うちのような小さな施設には、市からの補助金は少ないのです。ですから、女手といったら、まかないや掃除をしてくれるパートタイマーの保母さんしかいません。子供たちの親代わりは、ずっと私が務めてきましたが、やはり皆、母親の温もりに飢えているのです。私はあの天使の像を見て、そして菊川さんからあなたの噂を聞いて、微かな期待を抱きました。ひょっとしたら、あなたがあの子たちの、そんな飢えを満たしてくれるのではないかと。そしてどうやら、私の期待は裏切られなかったようです。あの子たちはたぶん、彫刻よりも何よりも、あなたとの触れ合いを求めているのでしょう。今まで、この施設では味わえなかった母親、あるいは姉の持つ温もりを、あの子たちはあなたに求めたに違いない。ですからどうか、私からもお願いします。あの子たちに、彫刻を教えてやっては頂けませんか?」
神父の熱のこもった懇願に、舞子は困惑した。
「でも、彫刻は難しい作業です。樹を鋸で切ったり、カンナをかけたり、彫刻刀で削ったりと、精巧な技術が必要とされます。小さな子供たちには、無理があると思うんです」
「そうですか。残念です」
神父は、舞子が、母親代わりは荷が重いと感じたから断ったのだと、そう思ったに違いない。
そんな神父が落胆する様を見て、舞子は他にいい方法はないかと、思案を巡らせた。
「そうだ。こんなのはどうですか? 来月は雛祭りですよね? 私が皆の立ち雛を一体ずつ作ります。皆に、それに色を塗ってもらうのはどうでしょう? その人形でお雛祭りをしたら、皆喜んでくれると思いますよ」
ついそんな言葉が口をついて出てしまった。
内心は、あまり子供たちと、親密になりたくはなかった。
その方が万一、自分の過去を知った時の、子供たちの落胆も少なくて済むだろう。
だが神父の懇願も、捨て置くわけにはいかない。
それに舞子も、簡単な立ち雛人形を何体か作って肩ならしでもすれば、聖母マリア像もすんなりと彫り進めそうな気がした。
「ほおーっ。それは素晴らしい。子供達もきっと、喜ぶと思います。何しろ、お雛祭りや、丹後の節句など、今までろくにお祝いもしてやれませんでしたから」
神父は急に元気を取り戻した。
(つづく)