Noah(5)
「そんなにまでおっしゃって頂いたら、私、断れないな……」
舞子はそう呟くと、おもむろに顔を上げ神父に向かって「お世話になります」とぺこりとお辞儀をした。
「ありがとう、舞子さん。子供たちも喜びます。よろしければ、さっそく今日からでも泊っていって下さい。部屋はもう、ちゃんと用意してありますから。それから、用材は二、三日中には用意します。それまでのんびりと過ごして下さい」
そう言うと、神父は笑顔でそっと舞子に手を差し伸べた。
舞子はその手を優しく握りしめた。
そして、側で満足そうにその様子を見ていた菊川に、懇願した。
「菊川さん。実はお願いがあるんです。私、出所したら、どうしても行きたいと思っていた場所があるんです。明日、そこへ行きたいんですが、だめですか?」
すると、菊川の表情が、急に険しくなった。
「どこへ行くのかね?」
やや厳しい口調で問い返す菊川を見て、舞子は確信した。
菊川は間違いなく、自分が良介と会うのを警戒していた。
もう過去は振り返るなという親切心からなのだろう。
だが、もともと良介と会う勇気などなかった舞子は、それを否定するように、堂々と答えた。
「古都です。死に目に会うことができなかった祖母が、最後に引き取った場所へ、どうしても行ってみたいんです。あさってにはここへ戻ってきますから、どうかお願い致します」
それを聞くと、菊川はやや肩の力を抜いて言った。
「ああ。いいとも。その代わり、古都の駅に到着したら、すぐに私の携帯に連絡を入れてくれ。それから晩になってからも、宿泊先から連絡をするんだ。いいかい?」
「分かりました。ありがとうございます」
舞子は声を弾ませて礼を言うと、深々と頭を下げた。
駅に到着すると、舞子はタクシーを拾い、老人養護施設「清風苑」に向かった。
そして駅から二十分ほど走ると、やがてタクシーはのどかな田園地帯に差し掛かった。
すると、だだっ広い田畑の真ん中に、ぽつりと白い建物が佇んでいるが見えた。
タクシーはゆっくりとその建物の側まで来ると、そっと停止した。
どうやらその建物が「清風苑」のようだった。
それは三階建ての、比較的綺麗な建物で、介護設備が十分行き届いた感じが見て取れたので、舞子はほっとした。
舞子が服役してすぐ、祖母は従兄弟夫婦によって、この施設に預けられた。
入居費用のほとんどは、祖母の銀行預金で賄われていたが、従兄弟夫婦もいかばかりか援助をしていたようだ。
舞子が、祖母と暮らしていた思い出深い実家の土地も、費用の足しにするため、売りに出されてしまった。
だが舞子は、祖母が少しでもちゃんとした施設に入居し、何不自由ない生活送ることができたので、それで良かったのだと思った。
施設を眺めながら、そんなことぼんやりと考えていた舞子だったが、突然、女性の事務員が何事かと、ドアを少し開けて、隙間から顔を覗かせたので、はっと我に返った。
「あなたは?」
事務員は目をぱちくりさせながら、問いかけてきた。
舞子は慌てて、二、三ヶ月ほど前に亡くなった祖母の部屋を見せて欲しいと、懇願した。
すると事務員は急に笑顔を見せ、「あら、もしかして、あなた深沢舞子さん? ちょうどよかった」と言うと、ドアを全開した。
そして「入って」と、舞子を中へ案内すると、内線電話で誰かに来るように指示した。
ほどなく、ヘルパーの太ったおばさんがやって来て、「舞子さんね?」と言って会釈した。
舞子も、狐につままれたような表情で、会釈を返した。
するとおばさんは「こっちへ来て」と階段を上り、二階へ舞子を案内すると、祖母がいた部屋へと連れていってくれた。
そこは二人部屋で、窓から緑溢れる田園の風景が見渡せる、白壁の綺麗な部屋だった。
ベッドが二つあり、一つのベッドには、老婆がすやすやと心地よさそうに眠っており、もう一つのベッドは空だった。
恐らくそこに、祖母が眠っていたのだろう。
「深沢沙世さんは、そこで息を引き取られました。心臓麻痺だったけど、とても安らかな死に顔で、苦しむことなく、眠るように逝かれましたよ」
おばさんはそう言うと、いとおしむように、ベッドを撫でた。
「そうですか。それを聞いて、私も心が安らぎました。いろいろ、お世話になりました」
そう言うと、舞子も懐かしい祖母の姿に想いを馳せながら、優しくベッドを撫でた。
「ごめんね、おばあちゃん。寂しい想いをさせてしまって」
舞子はそう呟くと、目から涙を滴らせた。
その時、隣のベッドの老婆が、突然目を覚ました。
ううんと唸り声を上げると、老婆は怪訝そうな顔で、ゆっくりと上半身を起こした。
おばさんがそれを見て、優しく声を掛けた。
「あやめさん、起きたの? こちら舞子さん。ほら、沙世さんのお孫さんよ。覚えてる? あんなに仲良くしてたじゃないの。沙世さんのお孫さん」
「深沢舞子です。生前は、うちの祖母がお世話になりました」
舞子は慌てて涙を拭うと、そっと一礼した。
するとあやめも、急にぽろぽろと涙をこぼし始め、「おおっ、お沙世さん。戻ってきてくれたんだね。よかったよ。本当によかったよ」
と、舞子の両手を握りしめ、何度も何度も揺さぶった。
「違うわよ、あやめさん。この人はお沙世さんじゃないの」
おばさんは呆れ顔で声を掛けた。
そして呆気に取られる舞子に向かって、ため息混じりに言った。
「やれやれ。大分、痴呆が進んじゃってね。以前はお沙世さんと、ものすごく仲が良かったんだけどね」
それを聞くと、舞子の心がほんのりと温もった。
舞子は思わず、にこりとあやめに微笑みかけていた。
するとあやめは、今度は両手を合わせて、「なんまいだ、なんまいだ」と舞子を拝み始めた。
「やれやれ」
おばさんが溜息を吐くと、それとほぼ同時に、先ほどの事務員がやって来て、「はい、これね」と言って大きな封書を手渡し、再び慌ただしく階段を降りていった。
おばさんは封書から一通の手紙と、そして大きな白い鳥の羽を一本取りだした。
たぶん羽飾りなのだろう?
それは陽の光を浴び、きらきらと美しい光沢を放っていた。
(つづく)