Noah(2)
騒ぎを聞きつけ、恭子が見回りにやって来たが、舞子は何でもないからと、しらを切り通した。
恭子は舞子の顔の痣を見て事態を察知したが、舞子が何もなかったことにして欲しいと、土下座までして何度も何度も懇願するので、大目に見ることにした。
そんな事があってから、四人は舞子の、必死に幸せを掴もうとする献身的な態度に、共感を覚えるようになった。
そんな四人が、舞子の魅力の、完全な虜になってしまったのは、ある夏の日に行われた、工芸品の製作作業の時であった。
タンスや置物といった、ここの囚人たちが作った工芸品の展示即売会が、市内のデパートで、春秋と、年に二回催されることになっていた。
だからこの作業は、刑務所にとって、欠かせない恒例行事となっていたのだ。
それに品物が売れたら、その作者の囚人は、僅かではあるが作業賞与金が貰えた。
その時舞子は、皆の前で鮮やかな彫刻の腕前を披露したのだ。
幼い頃に死んだ父親が、かつて古都で仏師をやっていたと、舞子は祖母から聞かされていた。
だから、その血を受け継いだのだろうと、舞子は思っていた。
自分には一流の彫工になれるだけの才能がある。
舞子がそう確信したのは、中学生の頃、美術の授業中に製作した木版画が、自分ではさほどではないと感じていたのに、教師にべたぼめされた時からだった。
だからと言って、彫刻で生計を立てるのは、そうたやすいことではなく、その才能は、たまに趣味で作成する、置物程度にしか発揮できないでいた。
だがその日、久しぶりに彫刻刀を握った舞子は、無我夢中である物を彫り続けていた。
そして出来上がったのは、愛くるしい笑みを浮かべた、天使の彫像だった。
両手を組み、天を仰いで祈りを捧げる、羽の生えた可愛らしい天使。
それは舞子が大学生の頃、イタリアへ旅行した時、フィレンツェの、とある協会の門に飾られていた彫像を思い出して彫ったものだった。
舞子の脳裏に、その安らかな笑みがしっかりと焼き付いていて、その時舞子は、なぜか無意識のうちにその像を彫っていたのだった。
その見事な出来栄えに驚いた他の女囚たちは、一旦作業の手を休め、舞子の周りに群れをなし、感嘆の吐息をもらしながら、その彫刻に見入っていた。
その天使の微笑みは、女囚たちの荒んだ心を和ませてくれたのだった。
そんなことがあって以来、舞子は女囚たちの間で、ちょっとした人気者になってしまった。
同房の四人も、舞子に天使の像の彫り方を教えて欲しいと、せがむようになった。
この不思議な現象に、最初は舞子自身も戸惑った。
だが、自分の作った天使で、少しでも皆に安らぎと生きる希望を与えられるのなら、何とか力になりたいと思った。
それで舞子は、自分の一番の理解者である恭子に、皆のために彫刻教室を定期的に開きたいと懇願した。
女囚たちからの要望も多く、舞子に対する、周囲の評判も良かったので、恭子からその話を聞かされた所長は、厳重な監視の下でなら構わないと、それを承諾した。
こうして舞子は、週に一回、食堂の一画で受講を希望する女囚たち全員に、彫刻を教えた。
女囚たちは自らの手で、神聖で美しい物を作りだすことによって、汚れた魂を浄化したかったのだ。
そして生まれ変わりたかったのだ。
ふと、舞子は気づいた。
自分の力で、皆の魂を救うこと。
これこそが、自分にとっての幸せなのだと。
舞子はいつしか、このままずっと皆とここで暮らして、皆のためにいろんな彫刻を彫り続けようと決心していた。
だが、そんな気持ちとは裏腹に、舞子に仮釈放の決定が下されたのだ。
それは服役して、五年後のことだった。
刑期は十五年だったが、舞子の献身的な努力に心を打たれた所長が、懸命に手続きの労をとってくれたおかげだった。
だが皮肉なもので、舞子はいざ出所となると、今度は外の世界へ引き戻されるのが、恐ろしくなってしまった。
今では、気心の知れた仲間たちとの別れが、身に染みて辛かった。
もちろん、外の世界に死ぬほど会いたい人ははいた。
だが、彼が自分と対面した時、果たしてどんな反応を示すのか?
考えるのが怖かった。
彼は本当に、自分のことを愛してくれていたのだろうか?
その問いに対する答えが、虚しいものであろうことを、舞子は予感していたのだ。
それが舞子を、ことさら戸惑わせたのだった―
ふと立ち止まった舞子に、恭子が囁いた。
「あなたの未来は、後じゃない。あの、目の前にある鉄格子の向こうにあるのよ。いい? もう決して、立ち止まっちゃだめ」
「でも……」
舞子はそう言って、名残惜しそうに元来た廊下を振り返った。
と、その時だった。
「フレーっ、フレーっ、舞子。フレ、フレ、舞子。それっ」
鉄扉の奥から、あの四人のエールが響き渡った。
「ありがとう、みんな……」
舞子は四人の熱い想いを、胸にしっかりと噛みしめると、再び外界へと続く鉄格子に向かって、歩き始めた。
(つづく)