えっさっさ、ヨーイ!(最終回) | 「HEROINE」著者遥伸也のブログ ~ファンタジーな日々~

えっさっさ、ヨーイ!(最終回)


「HEROINE」著者遥伸也のブログ ~ファンタジーな日々~-えっさっさ最終

ちあきがシティホールに到着したのは、ちょうどタイミングよく、晴仁の葬儀が始まってすぐの頃だった。なるべくなら、やつれ果てた自分の姿を、あまり大勢の目に触れられたくない。そんな想いから、ちあきはわざと遅れてタクシーで乗り付けて来たのだった。

ちあきは慌てて香典をバッグから取り出して受付を済ませると、係員の案内で式場に入り、そっと最後列の席に、目立たないように腰掛けた。

式場内を見回すと、中は意外に狭く、百人ほどの弔問客がひしめいていた。響き渡る読経の中、ちあきは必死で目を凝らし、祭壇に祀られている晴仁の遺影をじっと見つめた。

そこには、あの懐かしい晴仁の笑顔があった。その時になってやっと、ちあきの脳裏に、晴仁の顔が鮮明に浮かび上がって来た。

別れてからも、毎年欠かさず年賀状を送ってくれた。それにはいつも、「先生に会いたい」と書いてあった。

ちあきも年賀状に「いつか絶対に会おうね」と書いて出したが、実際は生返事で、こちらから会おうとしたことなど一度もなかった。

何度か同窓会の案内も送ってくれたが、参加する意志など全くなかった。

なんて薄情な女なんだろう。

ちあきは、あの頃に比べると、今やすっかり心が荒んでしまった自分が嘆かわしかった。そしてそんな自分に、つくづく嫌気がさして来た。

一度でもよかった。たった一度だけでも、晴仁に会いに来るべきだった。ちあきは悔やんだが、時すでに遅しだ。

やがて読経が一段落すると、焼香が始まった。係員の案内で、前列から弔問客が一人一人立ち上がると祭壇に向かい、次に次に焼香を済ませて行った。その面子の中には、懐かしい顔がいくつか見え、その度にちあきは思わず声を掛けたくなる衝動にかられた。しかし今の自分の姿を振返り、慌ててそれを自制する。

そして遂にちあきの番が訪れた。係員に促され、ちあきは恐る恐る立ち上がると、おぼつかない足取りで祭壇に向かった。そして最前列に座っている親族に頭を下げ、祭壇と向き合うと合掌し、ゆっくりと焼香を始めた。そして焼香を済ませると、再び晴仁の遺影に合掌し、呟いた。

「晴仁君、ごめんね。ごめんね」

その後再び後ろを振り返ると、親族に向かって頭を下げた。

その時、晴仁の母親と目が合った。あまりの懐かしさに、思わずちあきの顔が綻んだ。母親も嬉しそうに笑みを浮かべると、ちあきに深々と頭を下げた。

ようやく自分の存在が認められたような気がして、ちあきの心がほのぼのと暖かくなった。

その後席に戻ると、式の進行は流れるように進み、予定時間通りに終了した。親族による最後の別れと出棺の準備が始まると、弔問客はぞろぞろと式場からロビーへ移動し始めた。ちあきもその雑踏の中に紛れ込み、ロビーへと出た。そして目立たないように片隅に隠れ、出棺の時を待った。

やがて親族達によって棺が運び出され、手際よく霊柩車に納められる。

こうして出棺準備が整うと、晴仁の母親による、会葬者への挨拶が始まった。

「本日はお忙しい中、斎場まで足をお運び下さいまして誠にありがとうございました。皆様もそうでしょうが、突然の出来事で親である私も、いまだに現実が受け止められない状態でございます。あの子はとにかく優しい子でした。その優しさが仇となって、こんな事になってしまったのは残念でなりません。しかしこうして、大勢の皆さんの優しさに包まれながら旅立てるあの子は、きっと幸せ者に違いありません。どうか、どうか皆さん。いつまでもあの子の優しさを、優しさを忘れないでやって下さい」


そこまで言い終えると、母親は堪えていた涙を目から一気に噴出させ、泣き崩れた。側にいた親族の人達が、慌ててそんな母親の体を支えると、霊柩車の助手席に乗せた。

その時だった。誰かがぽんと、ちあきの右肩を軽く叩いた。

はっと横を見つめると、そこには懐かしい顔があった。


「杉本君?」

「先生、久しぶり」


そこには、悲痛な面持ちをして佇む、杉本の姿があった。

杉本はあの頃とほとんど変わっていなかった。

そう言えば杉本は、最近名古屋市内で歯科医を開業したと聞く。

ちあきは以前、晴仁から貰った年賀状にそう書いてあったのを思い出した。

杉本もまた、人目を避けて雑踏に紛れていたせいか、ちあきは今まで、その存在に全く気づかなかった。

すると係員の案内で、ポワンと、霊柩車のクラクションの音が、涼しげな秋空を包み込むように響き渡った。いよいよ最後のお別れだ。ちあきは合掌すると、固く目を閉ざし、頭を下げた。

会葬者が見守る中、霊柩車はゆっくりと発進し、懐かしい明高がある方角へと、走り去って行った。

「先生、よく来てくれたね。きっと晴仁も喜ぶと思うよ。ちょっと掛けようよ」

「ええ」 


杉本は気さくにそう声を掛けると、ロビーに設置してある椅子に腰掛けた。ちあきもその隣に腰掛けた。
ちあきは久しぶりに再会した杉本に、どう接したらよいのか戸惑い、なかなか積極的に話し掛けられないでいた。確かに一度は和解した仲ではあったが、今でもちあきは、時折過去の事件のことが脳裏に甦り、苦痛を感じることがある。その元凶である杉本が、現実に今目の前にいるのだ。その心中は複雑だった。

しかし杉本は、そんなちあきの心中とは裏腹に、気さくに晴仁との思い出話を語り始めた。

杉本は最近まで、晴仁と親交が続いていたようだった。時折、二人で関西の方まで、車で小旅行をしたりしていたのだと言う。

旅先での思い出話をいろいろ聞かされているうちに、やがてちあきの心はなごんでいった。そしてようやく、杉本に心が打ち解けて来た頃だった。突然、杉本は神妙な顔付きで黙り込むと、ちあきの目をきりりと見据えた。

「どうしたの? 杉本君」

ちあきが不安そうに問い掛けると、杉本は持参していた紙袋から、正方形に折りたたんだ、白い布を取り出した。

「先生。俺、実は晴仁のお袋から頼まれたんだ。これを先生に渡して欲しいって。ぜひ、先生に持っていて欲しいって」

「お母さんから? 何なの?」

その白布を手に取ると、ちあきはそっと広げた。

布には黒いマジックペンで「江草先生へ」と書かれていた。

かなり前に書かれたらしく、字は掠れていた。

「覚えてる? 先生。卒業式の日のことを」

「ええ。忘れようたって忘れられないわ。まさかこれ、あの時の?」


ちあきが目を見開いて問い掛けると、杉本はにこっと笑って頷いた。

「そうだよ。これは晴仁があの時、腰に巻いていたさらしだよ。俺はあんなもん、とうになくしちゃったけど、あいつはこれをずっと大切に持ってたんだ。先生のために」

「私のために?」

「そうだよ。日本には帯び祝いの風習があるだろう? 女性が妊娠5ヶ月の戌の日にお腹にさらしの帯を巻き、安産を祈願するっていうね。晴仁は将来、先生が結婚して子供ができた時に、このさらしを安産祈願に使ってもらいたかったんだ。あの日は晴仁にとっても、俺にとっても特別な日だった。俺たちの、新しい人生の門出を祝う、一大イベントだったんだ。その神聖な儀式に使ったさらしだからきっとご利益がある。あいつはそう信じてたんだ。だから先生の幸福のために、それを役立ててもらおうとして、今の今まで、大事に取ってやがったんだ。馬鹿な奴だよな」


杉本はそう言うと、今まで気丈に振舞っていたのが嘘のように、突然涙ぐみ始めた。

「俺の負けだよ。先生への想いは、あいつの方が勝っていた。今の今まで独身を通してさ。全く、生まじめと言うか、単純と言うか。とにかく、純で真っ直ぐな奴だったよ」


その時、ちあきの腹の中がじんと熱くなると、微かに震えた。

新しく芽生えようとしている命の叫びが、主張が、ちあきの中を駆け巡った。

私は何て愚かなのだ。あの時、晴仁と杉本の二人のおかげで、全てをリセットできたはずなのに、知らす知らずのうちに、また元来た道を引き返していた。

ちあきはそのことに、今気づいたのだった。

産もう。この子を。誰に何と言われようとも。

ちあきは決心した。

不思議だった。その時、ここに来てから一滴たりとも流れなかった涙が、堰を切ったように、突然溢れ出したのだ。

心の澱みを洗い流してくれるような、済んだ涙がぽろぽろと、白いさらしの上に落ちていく。その涙を拭うように、ちあきはさらしを頬に当て、いとおしんだ。

「せ、先生。いいのかい? それずっと洗濯してないんだぜ」

ぐすっと鼻をすすり、涙を右手で拭いながら、杉本がおちゃらけて言った。

「馬鹿ね」

ちあきも右手で涙を拭うと、右指で杉本の額を小突いて笑った。
ふと立ち上がって窓から外を見上げると、爽やかな秋晴れの空が果てしなく広がっていた。

晴仁を乗せた霊柩車はもう、学校の前を通過しただろうか?

ぼんやりとそんなことを思いながら、ちあきは晴仁と出会った日、職員室から眺めていた懐かしい校庭の風景に、じっと思いを馳せていた。
                         ―了―

ペタしてね