えっさっさ、ヨーイ!(16) | 「HEROINE」著者遥伸也のブログ ~ファンタジーな日々~

えっさっさ、ヨーイ!(16)


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そう言うと、ちあきはそのまま理科室を去った。知らず知らずのうちに、目から涙が零れ始めた。それは虚しさ、寂しさ、そして悔しさが入り混じった、複雑な感情が弾けて生み出された、かけらのように思えた。慌てて涙を拭おうと、胸ポケットに手を当てる。しかしハンカチはなかった。そう言えば、あの二人に捧げたのだ。 

ちあきは誰にも涙を見られたくない一心で、顔を伏せながら廊下を歩いた。気がつくと、校舎の玄関に向かっていた。

一刻も早くここを立ち去りたい。そしてここで起きた出来事の、何もかもを払拭したい。いや、いっそここから自分自身が消えてしまいたい。そんな思いにかられ、ちあきはそのまま玄関から外へ出ると、学校を立ち去った。

昨日まで続いていた厳しい残暑もようやく峠を越えたようで、涼しげな秋風が、そよそよと頬を撫でた。その時になってようやく、ちあきは落ち着きを取り戻した。

やっと別の世界に逃げ延びた。ちあきはそんな安堵感に包まれると、そっと立ち止まり、右手で涙を拭った。

それから、あっという間に半年が過ぎた。

校長は英語の後任教師が見つかるまでの間だけでも、学校に来て教鞭を取って欲しいと懇願したが、ちあきはそれを拒否した。

しかし校長も諦めず、取りあえずは長期療養扱いにしておくから、気が変わったらいつでも復帰して欲しいと、後日電話で告げて来た。

ちあきは暫くの間、思い悩んだ。果たして、このままあの二人を見捨てるような形で、職務を放棄してもよいのだろうかと。

しかしもはや、ちあきには教師を続けていく自信もなかった。それも事実だった。

学校に戻っても、やがて自分の存在そのものが、災いをもたらす。

そんな恐怖心がちあきを脅かし、自分には教師としての資質がないのだという結論に至る。しかし教師としての責任感が自分を奮い立たせようともする。そんな心の葛藤が、ちあきを苦しめた。

心機一転、新しい職を見つけようと、地元の求人案内を見て零細企業を何社か訪問し、面接を受けた。しかしどれもうまくいかなかった。その結果が却って、ちあきの自信を喪失させた。

ところが後で知ったのだが、これは学校の陰謀だった。

履歴書を見て、人事の採用担当者が、密かに学校へちあきの退職理由を照会した際、学校側は生徒とあらぬ関係になって辞めたなどと、根も葉もない理由を告げ、ちあきの再就職を妨害していたのだ。

とある企業の、おしゃべり好きそうなおばちゃん総務課長に、自分のどこがいけないのかと思い切って問い合わせてみたところ、こっそり事情を耳打ちしてくれたのだ。

当然、そんな訳ありの女など、どこの会社でも敬遠するに決まっていた。ちあきはそれを知った時、怒り心頭に発した。

ちあきは思った。学校側がそうまでして自分を引き戻そうとするのは、やはりあの事件のことを、世間に口外されては困るからなのだろうか?

少なくとも、自分達の蚊帳の中に入れておけば、その懸念はないことは確かだった。

そして、ちあきのその疑念が確信に変わったのは、三月に入ってすぐのことだった。

その日、思いもよらない人物が、突然家を訪れたのだ。

呼び鈴が鳴って、おもむろに玄関のドアを開けると、そこに立っていたのは杉本だった。彼は以前とはうって変わって、やつれた様子だった。顔は土色で、目は虚ろ。かつての覇気は全く消え失せていた。ちあきは一瞬、戸惑いの表情を隠せなかった。

その様子から見て、いい報せがあって来たのではないと察したからだ。恐らく、受験に失敗したのだろう。晴仁と二人揃って来ないところを見ると、晴仁の方はうまく合格できたに違いない。そんな晴仁と一緒に挨拶に来るのは、ばつが悪いのは当然だ。

ちあきは、慌てて笑顔を取り繕い、努めて明るく振舞うことにした。

「久しぶりね。元気だった? ごめんね。先生もいろいろあって、杉本君達のこと気になってたんだけど、連絡できなくって。さあ上がって」


ちあきはそう言って、杉本を家に招き入れると、リビングに通し、ソファーに座らせた。そしてキッチンへ赴くと、手早くコーヒーを入れた。その後カップを運び、杉本にそっと差し出したが、杉本はぺこりと一礼しただけで、何も喋らなかった。

「杉本君、どうしたのよ? 元気出しなさいよ。久しぶりの再会なんだから」

ちあきが心配そうにそう声を掛けると、ようやく杉本は重い口を開いて、ぼそりと呟いた。

「先生。俺、退学になったんだ。見事に学校に捨てられたよ」

「ええっ、なぜ?」


 予想外の告白に、ちあきは驚いた。事は受験失敗よりも深刻だ。


「先生、俺だめだった。志望大学にことごとく落っこちた。そしたら学校は手の平を返すように、俺を切り捨てた。いや、そもそも悪いのは俺自身なんだけど。先生にあんな酷いことをした報いだと思えば仕方がないさ」

「そんな。杉本君、気にしないで。もう済んだことなんだから」

「実はあの時、一緒にいた山下の奴が、こっそりテープで録音していたんだ。あの出来事の一部始終を」


その時ちあきの脳髄を、衝撃が襲った。自分の中からは、ようやく色あせて、完全に消え失せそうまでになった、悪夢の記憶。その音声を記録したテープが存在していたなんて、悪夢の復活だ。ちあきはショックのあまり、手にしていたスプーンを床に落とした。

「先生、すまない。嫌なことを思い出させてしまって。そのテープ、実は密かに校長が、山下の奴から没収していたんだ。今になって山下が白状した。俺は全然知らなかった。実はつい最近になって、あの事件のことが、東京の明興体育大の理事長に知られてしまったらしいんだ。校長はそうなることをずっと恐れていた。理事長は政界や財界でも信用の厚い、大物らしい。規律を特に重んじる、厳格な性格で知られている。だからあの事件を密かにもみ消したことが理事長にばれたら、死活問題だ。でもとうとう、新聞社がばらしたらしい。理事長は事件が明るみにならないよう、今政界を通じて必死でマスコミに圧力をかけてるみたいだ。だから校長は、理事長から責任を糾弾される前に、慌てて俺を退学処分にしたんだ。俺があの事件を起こしたことを立証する証拠が、今になって見つかったってのを口実に。つまりあのテープだよ。今までずっと隠しておいて、いざとなったら俺を退学にするネタに使いやがったんだ。汚ない奴だよ」


杉本はそう言うと、悔しそうに舌打ちをして、冷めたコーヒーをぐいっと飲み干した。ちあきはどう反応していいのか分からず、暫く呆然としていたが、やがて怒りでじわじわと胸が熱くなっていくのを感じた。心に深く傷を負い、学校のために犠牲となった自分の気持ちなど、校長にはどうでもいことだったのだ。ただ、自分の保身のためだけに、自分は利用されたのだ。

それが分かった今、ちあきの中にまだ少しばかり残っていた教師への未練は、完全に吹っ切れた。ちあきは決意した。

まだ足を踏み入れることに抵抗はあったが、明日は勇気を振り絞って学校に出向き、正式に辞表を提出し、けりをつけようと。

                                 (つづく)