染み男第1号 (5) | 「HEROINE」著者遥伸也のブログ ~ファンタジーな日々~

染み男第1号 (5)

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「HEROINE」著者遥伸也のブログ ~ファンタジーな日々~-風景1

「どう? 気に入った?

河田泰文は、勝ち誇ったような笑みを投げかけると、そっと沙耶の右腕を掴んで、エレベーターホールまで引っ張って行った。
横浜のみなとみらいに聳え立つ高層ビル、ランドマークタワー。

今まで何度か側を通りかかった事はあったが、中に入ったのはこれが始めてだった。
ビルの三階から五十九階まではオフィスで占められているが、六十階から最上階の七十階までは高級ホテルになっている。デートスポットとして有名な場所なのだろう。
一階のロビーは沙耶達の他にも、二十代から四十代まで、幅広い年齢層のカップルで溢れかえっていた。
「すごいビルですね」
沙耶は何とか会話を弾ませようと、次の言葉を必死で考えるのだが、まだ河田に心を開きたくないという意志が無意識のうちに働いているせいか、どうしても口ごもってしまう。

このままじゃいけないと、何度も自分に呼びかけるのだが、どうも気分がのらない。
ホールに到着して数分後、ようやくエレベーターが一基一階に下りてきた。
「さあ」
河田はそんな沙耶の心中を察したのか、不満顔で、今度はやや乱暴に、ぐいと沙耶をエレベーターの中へ引き入れた。
数組のカップルも同乗し、エレベーターの中はたちまち息苦しくなった。
河田は六十階のボタンを押すと、息を潜めた。
静かに上昇していくエレベーター。密室に閉じ込められ、皆黙ったままだ。
沈黙がますます中の雰囲気を息苦しくさせた。ようやく六十階に到着すると、河田は腕を組んだまま、苛立ったように逸早く降り立ち、レストランへ沙耶を引っ張っていった。
ボーイが二人を窓際の静かなテーブルへ案内すると、メニューを丁重な手付きで二人の前に置き、一礼して立ち去った。
河田はスウェードのジャケットの胸ポケットからハンカチを取り出し、さり気なく額の汗を拭うと、思い切って口を開いた。
「沙耶さん。ここ気に入った? 実はね、俺達の式をここで挙げたいと思うんだ」
河田のいつになく緊張で強張った表情を見て、沙耶には何となく察しがついていたから、別段驚くことはなかった。

「すごいですね。ここ結構人気があるんでしょう? 早く予約を入れないといけませんね」
沙耶は作り笑いを浮かべながら、静かに答えた。沙耶にとってはどうでもいい事だった。

河田には愛情などない。でも嫌いでもない。河田は実直で、まじめなだけの男だ。
でも沙耶は、それ以上の事は何も望まなかった。愛情なら、家庭を築いてからじっくり育めばいい事だ。とにかく現状を変えたい。それだけだ。河田とは見合いで知り合った。

上野に住む、世話好きな母の姉が持ちかけてきた縁談だった。
相手は十も年上の三十六歳。細身で神経質そうな顔。

そんな河田の釣がきと写真を見て、最初沙耶は見合いを断ったが、母が強く勧めたので会うだけ会ってみることにしたのだ。
歯科医になるまでの苦労や、銀行での仕事の内容など、二人の会話は終始退屈なものだったが、沙耶は気を使う必要のない、気さくな河田に少なからず好感を持った。
そう好きでもないが嫌いでもない。どっちつかずの曖昧な気持ちをひきずったまま、ずるずると交際を続けてきた。
そしてついに沙耶は昨日、電話で河田のプロポーズにOKの返事をしてしまった。
「沙耶さん、式の日取りはどうします。俺は早いほうがいいんだけど」
沙耶は懸命に喋りまくる河田の話などうわの空で、窓の下に広がる荒涼とした大都会の光景に見入っていた。
「沙耶さん、二月くらいはどうかな? 仕事は暇なの?
「そうそう。その前にメニューを決めなくちゃ」

沙耶は話をそらすようにメニューを手に取り、おもむろに広げ始めた。
「そ、そうだね」
河田は寂しそうに呟いた。そのしょげた顔を見て、沙耶は何をやってるんだ、と自分を叱咤した。彼から目を背けてはいけないのだ。
これからこの人と人生を共に歩まねばならないのだ。
好きになるように努力しなければいけない。
「河田さん。私、ランチセットでいいわ」
沙耶はわざとではあるが、明るく声を弾ませた。
「そうだね。俺もそうしょっと」
河田はその様子に安心したように頷くと、軽く右手を挙げボーイを呼んで、ランチセットを注文した。
「ところで、君に断っておきたいんだけど……」
河田はいきなり咳払いをすると、言いにくそうに切り出した。
「なんですか?

沙耶は嫌な予感がして、思わず背筋を引き締めた。
「実は、君のお父さんの事なんだけどね。うちの両親にはまだ話していないんだ。三年前に、あんな不思議な形で失踪して、マスコミで騒がれたってこと。だから両親には君のお父さんは亡くなったって言ってあるんだ。頼むから気を悪くしないで聞いて欲しい。うちは祖父の代から続く、地場では由緒ある歯科医なんだ。だから両親はそういうスキャンダルにすごく敏感なんだよ。結婚して、ほとぼりが冷めるまで、うちの両親には君のお父さんは亡くなったって事にしておいてもらえないだろうか? 君の気持ちを逆なでするような事を言って悪いんだがね。だけど、俺なりに考えたんだが、式をスムーズに運ばせるには、こうするしかないと思んだ。俺の両親には、無事式が終わったら、俺の口からちゃんと説明するつもりだ。だからすまないが、分かって欲しいんだ」
沙耶はショックのあまり俯いた。てっきり河田の家は、全てを納得済みで結婚を承諾してくれたものだとばかり思っていた。沙耶は裏切られた気持ちになり、このまま婚約を破棄しようかと何度も思った。だが冷静に考えてみると、もしまた他の人と見合いをしたとしても、父親がかの有名な「染み男第一号」だと相手方に知られたら、事はスムーズには運ばないだろう。

十中八九破談になるに違いない。それを考えると、ここまでスムーズに運んだ河田との縁談を、このまま破棄するのは惜しい。自分さえ我慢すればいい事なのだ。
後は河田に任せれば済むことなのだ。沙耶は自分にそう言い聞かせると、決心して答えた。
「わ、分かりました。河田さんに全てお任せします。私の方は、父は亡くなったということで通しますから」
そんな嘘が押し通せるはずがない事は、重々承知していた。
しかし何とか式まで漕ぎ着けられればいいのだ―

やがてスープが運ばれてきた。

沙耶は悶々とした気持ちのまま、スプーンで掬ってスープを口に流し込んだ。

味も素っ気も無い白湯を、無理やり口に流し込んでいるような気がした。
河田は気まずそうに、暫くスープをじっと見つめていたが、雰囲気を一転させようと、突然重い口を開いた。
「あっ、そうそう。投資信託の積立、ノルマがあるんだろ? 俺も何口かつきあうよ」
だが暗く沈んだ沙耶の心に、その言葉は届かなかった。
果たしてこれでいいのだろうか? 沙耶は、そう自問自答しながら、ふと前方に目をやった。


すると、すぐ手前のテーブルに座っていたカップルが頭を下げた瞬間、見覚えのある男の顔が眼前に浮上した。
男は沙耶と目を合わせると、ばつが悪そうに照れ笑いを浮かべた。

黒ぶち眼鏡に短く刈り上げた頭髪―
中田だ。
なぜこんな所に?

きっとストーカーのように自分の事を尾行しているのに違いない。
沙耶はかっとなって、衝動的に立ち上がり、つかつかと中田の方へ歩み寄って行った。

沙耶が近付くにつれ、中田の表情が、次第に緊張で強張っていく。
中田は慌てて笑顔を取り繕い、「よお」と軽く右手を挙げた。
「一体、どういうつもりなんですか? こんなとこまで追いかけて来て」
「いや。偶然だね。クリスマスの催し物の取材にここのホテルに来てて、そしたら君を見かけたもんだから」

中田は頭を掻き、ぺこぺこ頭を下げながら弁解した。
「いいですか? はっきり言っておくけど、私は取材には協力しません。ストーカーみたいに付き纏われたら迷惑です」
沙耶は毅然とした態度で言った。
「本心なんですか? 本当に後悔しない?
中田は眉間に皺を寄せ、まるで咎めるように真剣な表情で問い質した。
「ええ」
沙耶は大きく頷くと、踵を返して、元のテーブルに戻ろうとした。

「絶対に君は協力する。協力しないではいられなくなるはずだ」
中田はそう断言した。その声に、思わず沙耶は立ち止まった。
そのあまりに自信に満ちた物言いに、思わず畏怖したのだ。
今の自分には、かけらも残っていない情熱。その熱さがねたましかった。
沙耶は中田から逃れるように、再び足早に自分のテーブルへ向って行った。

(つづく)


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