染み男第1号 (1) | 「HEROINE」著者遥伸也のブログ ~ファンタジーな日々~

染み男第1号 (1)

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「HEROINE」著者遥伸也のブログ ~ファンタジーな日々~-染み男第1号

今日はいつもより風が強いな。

強風が行く手をさえぎり、沙耶は思わず立ち止まった。 


沙耶の勤務している銀行は、高層マンションの一階にあった。今ようやく、営業から帰ってきたところだ。


はっと思い立って、沙耶はジャンバーの胸ポケットからそっとコンパクトミラーを取り出して、自分の顔を映した。そして慌てて容姿を整える。
だがちりぢりに乱れたストレートヘアはもはや整えようがなく、血色の悪い沙耶は、ふだんから薄化粧のため、どう手直ししようとしても、病的な面持ちに生彩を蘇らせる事はできそうになかった。

見慣れているはずなのに、そのみっともない姿に唖然とし、焦ってにこりと笑顔を作ってみる。

昔、テレビで放映されていたアニメーション「小さなバイキングビッケ」に似ていたことから、沙耶は友達から「ビッケちゃん」の愛称を授かっていた時期もあったが、そんな愛らしさはどこへやら―

そこに映るのは、無理をして寂しげに笑う、卵型の顔をした貧相なOLでしかない。

沙耶の口から溜息が洩れた。熱を帯びた白い吐息が、鋼鉄のドアの壁に当たって跳ね返り、湯気のように優しく沙耶の顔全体を撫でた。寒さで感覚をなくした沙耶の頬に、ほんのりと温もりが甦ってくる。これが夢ならどんなにいいだろう。
しかしやはりここは厳しい現実の世界だった。
沙耶はその事を実感すると、ゆっくりとインターホンのボタンに指を押し当て、帰店を知らせるブザーを鳴らした。

数秒経った後、内側からオートロックが解除され、沙耶はノブに手をかけて乱暴にドアを引き開けた。そしてまるで戦場から帰還した兵士のように辛辣な面持ちで、ぬくぬくとした営業室に向って、一目散に廊下を駆けた。
腕時計に目をやると、針は四時三十分を指していた。


しまった。帰店目標時間の四時はとうに過ぎていた。

また小言を言われるなあ―

廊下を駆けながら、沙耶は心の中でぼやいた。次第に喉の奥から、緊張のあまり甘酸っぱい唾液が込み上げてきて、吐き気をもよおしてくる。

そっとドアを開け、唾液を飲み込むと、沙耶は俯きながら営業室に入った。

そしてデスク上のノートパソコンと難しい顔をして睨めっこしている支店長に「帰りました」と擦れ声で挨拶する。


「ああ、お疲れさん」
投げ遣りに返事をする支店長を尻目に、沙耶は足音を立てず、忍び足で自分のデスクへ戻ると外交鞄を床に置いた。
そして静電気のせいで制服にしっかりと密着しているネイビーブルーのジャンパーをもどかしそうに脱ぎ、そっと椅子の背にかけた。
真向かいに座っている、石塚蝶子はすでに帰店していて、誇らしげに顧客からゲットしてきた契約書の束を数え始める。

現在キャンペーンを張っている、「投資信託定期定額積立」の契約書だ。
見たところ二十件は優に超えている。沙耶は萎縮して身を縮こませると、蝶子と目を合わせないように、俯いたまま椅子に腰を下ろした。そして鞄からこっそりと今日の収穫を取出す。沙耶の収穫は僅か二件である。
何回か訪問してようやく仲良くなれたお年寄り夫婦に、契約を取らなければ帰れないのだと泣く泣くお願いして、やっとの思いでゲットできたのだ。
その代償として、四時間も延々と息子や孫の自慢話を聞かされるハメになってしまい、帰店時間が遅くなってしまった。
「あら、お疲れさま」
蝶子は沙耶の心中を見透かしたように、わざとらしく声をかけてくる。

金色に染められた長髪をかき撫でながら―

「今日はどうだった?
「え、ええ。二件です」
「二件? ちょっと岸本さん、投信積立の目標は、得意先係一人五十件なのよ。今月はもう後十日しか残ってないのに。住宅ローンとか、カードローンとか、他にもいろいろ目標があるってのに、頑張ってもらわなくちゃ。あなたが取れない分、私にしわ寄せがかかってくるんだからね。お願いだから、頼むわよ」

「す、すみません」
沙耶には返す言葉もなかった。営業店は実績が全ての世界だ。
蝶子が二歳年下であろうと、実績は自分より上。頭を下げなくてはならない。

それに実績さえあげていれば、上司すら何も口を挟めない。
規則違反である髪を染めることにだって、平気で目をつぶる。

つい三ヶ月前、異動でこのH支店へ転勤してくるまで、入社以来ずっと総務部でデスクワークをしてきた沙耶にとって、いきなりの得意先係への就任は、地獄へ落とされるに等しい処遇であった。さんざん畑違いの部署でこき使いながら、ある日突然、平気で戦場の第一線へ送り飛ばす。
企業というものの非情さに、沙耶は憤りを感じた。
しかしこの失業難の時代に、特別な技能など何も持たない沙耶が、そうやすやすとここよりも優遇してくれる企業へ転職などできるはずもなく、慣れるまでは歯を食いしばって堪えようと決心したのだが、それもここにきて限界にきていた。
「やれやれ、困ったものね」
蝶子の、営業場全体に響き渡るほどの甲高い愚痴は、当然支店長の耳にも入った。

「岸本君、ちょっと来てくれ」
支店長はけだるそうに腰を上げ沙耶を呼ぶと、応接室へとつかつかと入っていった。
「はい」

またか―
沙耶は気のない返事をして立ち上がると、鉛のように重くなった両足をどうにか引きずって、応接室へ向った。
得意先課長が本来、沙耶の直属の上司になるのだが、得意先課の主流は飽くまで男子行員だ。
だから課長は男子を主に管理指導しており、席も沙耶達女子行員とは離れていた。

そんな訳で二人しかいない女子行員の指導は、厄介な事に実質は席の近い支店長自らが行っていたのだ。
咎めだてするような鋭い視線を向ける蝶子をちらりと垣間見ると、憎悪の念が湧いてきて、もう煮るなり焼くなり好きにしてくれればいいと、沙耶は開き直った。

すると大分、気が楽になった。

応接室に入ると、沙耶は余裕の笑みを浮かべながら「失礼します」と頭を下げ、支店長の面前に腰掛けた。
支店長は目を細めて鋭い眼光で沙耶を睨むと、くわえていたケントマイルドを親指と人差し指ではさんで口からつまみ出し、面倒臭そうに灰皿にこすりつけてもみ消した。

その様子をしげしげと眺めると、急にさっきまでの余裕は消え去り、沙耶は反射的に顔を強張らせた。

やはりこの男と面と向えばぶるってしまう。もう五十は過ぎているというのに、頑強な体格をしていて、その威圧感にはいつも圧倒させられてしまい、いざ言いたい事を言おうとしてもつい口ごもってしまうのだ。
「まあ、楽にしたまえ」
「は、はい」
「岸本君、どうだね? 営業の仕事はいい加減に慣れたかね?
「は、はい」
「君はデスクワークが長かったから、いきなり得意先課に配属されて、さぞかし辛い思いをしているとは思う。しかしだな、知っての通り、うちの支店は人員が二十人ほどの小規模店舗ながら、ベテランの精鋭ぞろいなんだ。窓口や融資係といった他の内勤者を、今ここで交替させたら、店の運営が回らなくなってしまう。だから君には空きのある、得意先係になってもらうしかないんだよ。営業は、そう知識がなくても愛嬌と美貌さえあれば、何とか務まる仕事だからな。何度も同じ事を言うようだが、その辺のところを理解してもらわんと」

支店長はにやりと含み笑いを浮かべ、沙耶を見つめた。
そんなの屁理屈だ。 沙耶は抗議するように、険しい表情で支店長を睨み返した。
はっきり言えばいいのだ。これは体のいいリストラなのだと。

うちの銀行では、まだ女性得意先係の人数は少ない。現在試行の段階なのだ。

だから軌道に乗るまでは、それ相応のキャリアを積んだ者だけが選抜されている。

なのに、全く営業に不向きな沙耶を、いきなり得意先係に任命するなど無謀すぎる。

そうでなくてもひ弱な沙耶は、この寒空の中、スクーターに乗って走り回るだけでも苦痛であった。慣れない仕事を無理やり押し付け、精神的に追いつめて、自らの意志で退職に追い込む。銀行のやり口はそんなところだろう。

「それでだ。本題に入るが、今月に入ってからの君の営業成績なんだが、実にかんばしくない。同じ得意先課の蝶子君とは天と地の差がある。しかもいつも帰店時間は彼女よりも遅いしな。どこで油を売ってるのかは知らないが、いまは人件費の削減が重要視されてる時代だ。超過勤務は困るんだよ。実績は上がらん、時間は食うじゃ、踏んだりけったりだ。もっと効率を上げてくれんと困るよ」
「すみません」
沙耶は閉口するしかなかった。事実なのだから、弁明のしようがない。
それから延々と、支店長の営業の取り組み姿勢に対する説教が続いた。

そして最後に、こうつけ加えた。

「こんな事にまで立ち入って申し訳ないんだが、もう少し蝶子君を見習って、そのなんと言うか、色気を出したらどうかな」
「は?
「いや、もうちょっと化粧を濃くするとかさ。そうすれば、お客さんももっと君に関心を持ってくれると思うんだがね。こんな事、言いたくはないんだが……」
「わ、分かりました」
もう辞めてやろう。その時、沙耶は咄嗟に決心した。
美貌の事までとやかく言われる筋合いはない。気にしていた事だけに、余計にむしにさわった。沙耶はさっさとこの場を立ち去ろうと、腰を上げようとした。

その時―
「おっと、そうそう。それからもう一つ、困った問題が起きてね」

支店長は沙耶の心中を見透かしたように、わざとらしく会話を繋ぎ止めた。
ようやく解放されるかと思ったら、今度はなんなのだ。

もしかしたら―

沙耶の胃袋から、またしてもあの酸っぱい唾液がむかむかと込み上げてきた。
沙耶の、一番触れて欲しくない汚点に立ち入られるのでは―
胸がざわざわと騒ぎ始め、沙耶はごくりと生唾を飲み込んだ。

支店長はスーツの内側にあるポケットから、もったいつけるようにゆっくりとした動作で名刺入れを取出すと、中から一枚名刺を抜き取って沙耶の前に差し出した。
それには「東洋テレビ 取材部記者 中田達彦」とあった。

ああっと声を上げ、沙耶は思わず両手で顔を覆っていた。予感は的中した。
「今日、テレビ局からこの人が、君を訪ねてやって来たんだ。もちろん、即座に追い返したがね。だが、君がここに勤務している事がマスコミにばれてしまったのは問題だな」
支店長は眉間に皺を寄せると、更に続けた。

「ちまたで、君は何と呼ばれてるか知ってるかね?
「い、いえ」
「染み男第一号の娘だとさ」
「ひ、ひどい」
あまりの屈辱に、沙耶の目にじわりと悔し涙がにじんだ。

しかし支店長はそんな沙耶の様子になりふりかまわず続けた。
「私もこの前週刊誌で読んだんだが、今ちょっとした社会問題になってるそうじゃないか。その『染み男事件』がね。女房に聞いたら、朝のワイドショーでも特集してたらしいよ。しかし『染み男』とは傑作だな。こんな言い方をするのは不謹慎だが、君のお父さん、なかなかユーモアのセンスがあるみたいだ」
沙耶は涙を見せまいと、固く目を閉じて堪えた。
「ここだけの話だが、私も時々、君のお父さんのように染みになって消えてしまいたいと思うことがあるよ。いやほんと。支店の業績がこうも伸び悩むと、営業推進会議の席上で常務にとことんつめられるんだからね。それにしてもせちがらい世の中になったもんだな。現実が嫌になって、君のお父さんをまねて、社会的地位も責任も、そして家庭までも、何もかも放棄して、染みだけを残して失踪してしまう中高年男性が激増してるってんだからね。はははっ」
支店長は甲高い声で笑った。


(つづく)


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