5センチの英雄 (最終回)
翌日、私の病室に刑事が訪れました。
そして、昨夜のガス漏れは、やはり大家の仕業だったことを、教えてくれました。
大家は、合鍵で私の部屋に侵入し、ガス管に細工をしようとしたのです。
建物の老朽化が進み、ガス漏れの欠陥が発生したように見せかけ、私を追い出す口実にしようとしたらしいのですが、慣れない手付きでガス管を破壊しすぎてしまい、思っていた以上にガスが吹き出してしまったため、恐ろしくなって逃げだしてしまったそうです。
また以前に起きた、K町の古アパートの火災も、大家が家賃を滞納している居住者を追い出すために、ぼや騒ぎを起こそうとしたものの、思いのほか火が燃え広がってしまい、半焼させてしまったとのことでした。
大家は同じ手を使ったらばれてしまうと思い、今回はガス漏れ事故の擬装を思いついたのだそうです。
常軌を逸している―
私はそれを聞いた時、つくづく思いました。
しかし大変な目に遭ったというのに、ふと「ほーら、ごらんなさいな」と、誇らしげに笑うあの富岡さんの、ひょうきんで懐かしい顔を想像してしまい、つい吹き出してしまいました。
そんな私の顔を訝しげに見る刑事に、私はお願いをしておきました。
事故に遭った、あの少年の容態について、何か変化があったら私に教えて欲しいと。
私はずっと、あの少年のことが、気がかりでたまらなかったからです。
その日の夕方、私はどうにか、アパートに帰ることが許されました。
私は疲れ果てて、部屋に戻るやいなや、畳の上に寝転びました。
すると、畳の上に、あのカブトムシがひっくり返っているのを見つけました。
まさか!
私の頭の中を、衝撃が走りました。
私は慌てて起き上がると、カブトムシをそっと右手で拾い上げ、じっと見つめました。
「そうか。そうだったんだな。お前が、お前が知らせてくれたんだね」
私はその時、ようやく気付いたのでした。
昨日の晩、私が寝ている時、鼻や唇や頬を、一所懸命噛んで、私を起こそうとしてくれたのはこのカブトムシだったのだと―
なのに、なのに私は、無下にも払いのけてしまった。
でもお前は、きっとそれを覚悟していたんだろう。
それを覚悟で、私のことを救ってくれたんだね。
「ありがとう。ありがとう」
私はカブトムシに、何度も何度も、お礼の言葉を呟いていました。
すると、知らず知らずのうちに、目から涙があふれ出していました。
私を救ってくれた、小さな小さな英雄―
私はその時、彼に勇気をもらったような気がしました。
今までの古い自分の殻を脱ぎ捨て、新しい一歩を踏み出す勇気を―
するとその時、カブトムシが微かに足を動かしました。
生きている。まだ、生きている。
私は胸を躍らせると、慌てて冷蔵庫から西瓜の切り身を取り出し、そっとその上に彼を置いてあげました。
すると彼は、ゆっくりと頭を切り身の中に突っ込み、果汁を吸い始めました。
私はじっとその様子を見つめていました。
その時でした。
電話のベルが、けたたましく鳴り響きました。
慌てて受話器を取ると、それは警察からの電話でした。
「島田さんですね。あの男の子の、男の子の意識が無事に戻りましたよ」
その知らせに、私はほっと胸を撫で下ろしました。
警察にお礼を言って受話器を置くと、私は西瓜の上で果汁を吸っているカブトムシに目を移しました。
「よかったな。お前の友達は無事だったってよ。本当に、本当によかった」
そう言って、軽く指でつついてみると、もはや彼は固くなり、動かなくなっていました。
まるであの少年に、自らの命を吹き込んで、逝ったようでした―
(了)