天使のエキス (5)
病院で、久しぶりに親子水入らずの時を過ごしたおかげで、僕は父との絆が今まで以上に深まったような気がして、失いかけていた自信を、どうにか取り戻すことができました。そしてふと窓の外を見ると、陽が大分暮れかかっていたので、そろそろ帰ることにしたのです。
病院から店までは、自転車で30分くらいの距離でした。
僕は来た時とはうって変って、ペダルをこぐ足も軽やかに、超特急で店へと向かいました。
もしかすると、加奈子さんが待ってくれているのではないか?
なぜか、そんな気がしたからです。
そして僕は店に着くやいなや、扉を開け中に入ると、明かりを点して、店内をそっと見回しました。
しかしやはり、そこには誰もいませんでした。
僕はがっかりしてため息を吐くと、椅子にそっと腰を下ろしました。
すると、久しぶりに父と会って気疲れしたせいか、じわじわと睡魔が襲ってきました。
そして、次第に明かりがまぶしく感じるようになってきたので、僕は再び明かりを消し、そのまま深い眠りに落ちました。
それから、どれくらい眠っていたのか分かりません。
「リュウ君」
誰かが呼んだような気がして、僕ははっと目覚めました。
もしや加奈子さんでは?と思い、僕は飛び起きると、慌てて扉を開け、外へ飛び出しました。
すると外は真っ暗で、人通りはすっかり途絶えていました。
僕は心細くなり、すがるような想いで、加奈子さんの姿を探しました。
その時―
僕の背後から、何者かが手を伸ばし、僕の口を強く押さえつけました。
「うう……」
僕は息が苦しくなり、何とかその魔の手から逃れようと、無我夢中で両手をばたばたさせ、激しく抵抗しました。
するとそいつは体勢を崩し、仕方なく手を放すと、今度は僕の右の頬を殴りました。
その時、脳がバウンドするくらいの激しい衝撃が、頭の中を一周したかと思うと、やがて僕の意識は遠のいていきました。
そして僕は地面にしゃがみ込み、両手で頭を抱え、うずくまりました。
一瞬でしたが、その時うっすらと、目の前に立つ男の姿が見えました。
その顔には見覚えがありました。
そいつはいつか、店でてんかんの発作を起こした、あの猫背の中年男だったのです。
なぜあの男がここにいるのか? そしてなぜこんなことをするのか?
その答えはすぐに分かりました。
なぜなら、壁から石油の匂いが漂ってきて、つんと僕の鼻を刺したからです。
すると男は、予想した通り、へらへらとうすら笑いを浮かべながら、ライターで壁に着火しました。
大変だ。なんとかしなくちゃ。
頭の中ではそう思っても、全身が麻痺していて、指一本たりとも動かせませんでした。
そんな僕の焦る気持ちをあざけるように、火は容赦なく、壁全体に燃え広がっていきました。
「もうだめだ。僕と父さんの店が、燃えてなくなってしまう。僕のせいだ。僕がこのお客さんを怒らせたからだ。父さん、ごめんなさい。本当にごめんなさい」
僕は頭の中で、父に繰り返し謝っていました。
するとその時でした。
へらへら笑っていた男の顔つきが豹変したのです。
その顔は、一変して、何かに怯えるように、ひきつっていました。
「うわわっ。く、来るな。来るな」
男はそう叫ぶと、生まれたての子猫のように、全身を小刻みに震わせながら、じりじりと後ずさりし始めました。
僕は恐る恐る、男の視線の先に目を移しました。
するとそこには、白い女性の姿が浮かび上がっていました。
さらにじっと目を凝らして見ると―
それは加奈子さんでした。
しかしそこにいたのは、僕の知っている、笑顔の愛らしい加奈子さんではなく、鋭い目つきで男を見つめる、鬼のような形相の加奈子さんでした。
加奈子さんはじりじりと、男に詰め寄っていきました。
「ひいいっ、化け物っ」
男は情けない声を上げると、突然、尻もちをつきました。
すると燃え広がっていた炎が、男の衣服に引火しました。
たちまち炎は男の全身を包みこみました。
「うわわっ、あちちっ。た、助けてえーっ」
男はたまらず、地面を転げ回りました。
大変だ。男が焼け死んでしまう。
僕はぼんやりと、そんなことを思いながら、ただその様子をじっと見守っていました。
体が金縛りにあったように動かなかったので、そうすることしかできなかったのです。
加奈子さん、あの人を助けてあげて。
僕は懇願するように、加奈子さんをじっと見つめました。
すると僕の想いが通じたのか、加奈子さんはにこりと微笑んで、右手を天高く上げました。
そして、すぐさま、信じられないことが起きたのです。
急に空から、一滴、二滴と、雨粒が落ちてきたかと思うと、次第にその数は増していきました。
そして僕が空を見上げた時には、それは豪雨へと変わっていました。
再び目線を元に戻した時には、あまりの雨脚の激しさに周囲は白く霞み、全く見えない状態になっていました。
その時、僕の金縛りが突然解け、体が自由になりました。
僕は慌てて立ち上がると、ずぶぬれになりながら、叫びました。
「加奈子さんっ、加奈子さんっ」
しかしいくら呼んでも、返事はありませんでした。
すると次第に雨脚は衰えていきました。
それからどれくらいの時間が経過したのか、覚えていません。
気がついた時には、雨は綺麗に止んでいました。
そして足元を見ると、男が地面に這いつくばり、泣きじゃくりながら、誰かに謝っていました。
「許してくれ。許してくれ」
男は加奈子さんに謝っているんだ。
僕にはすぐ分かりました。
しかしその時にはもう、加奈子さんの姿はありませんでした。
(つづく)