天使のエキス (3)
加奈子さんの指導を受けながらも、僕が作ったとんぺい焼きは評判を呼び、二日、三日と経つうちに、来店客の数はじょじょに増えていきました。
そして気がつくと、昼時には行列ができるほど、店は繁盛するようになっていました。
加奈子さんが伝授してくれたとんぺい焼きの生地には、二つの特徴があったのです。
まずは食感。
生地にはもちもち感があり、なおかつうっすらと焦げた表面のカリッと感とのバランスが絶妙で、その歯ごたえは実に心地よいものでした。
もちもちっとした食感は、今では珍しくはなくなりましたが、当時は画期的だったのです。
そして次に、あっさりとした味。
加奈子さんが作った特製出汁が、生地にほんのりとしたうまみを与え、とんぺい焼きの味を、上品で飽きのこないものに仕立て上げていました。
こうして、加奈子さんの指導を受け始めてから、半月ほど経った頃、僕は一人でも、とんぺい焼きを作るだけの自信を身につけていました。
でも僕は、あえてその事を口にはしませんでした。
なぜなら、僕が独り立ちできるようになったと知れば、加奈子さんは僕の前から消えていなくなってしまう。
そんな気がしたからです。
僕は加奈子さんが大好きでした。
だから、一分一秒でも長く、加奈子さんと一緒にいたかったのです。
しかしある日の朝―
加奈子さんが、そんな僕の気持ちを見透かしたように、突然言いました。
「リュウ君。そろそろ一人で作ってみない?」
「ええっ?」
「今日、私は一切アドバイスもしないし、手を出すのもやめる。遠くから見ているだけにしておくわ。だから、頑張ってみて」
こうして僕は渋々、その日加奈子さんの指示通り、一人で作ってみることに挑戦したのでした。
そして、壁時計の針が午前十一時を回った頃、中年の客が一人、うつむき加減で店に入ってきました。
その客は猫背で、長い頭髪に白髪の混じった、生彩のない中年の男でした。
「いらっしゃいませ」
僕が元気よく声をかけても、その客は俯いたまま、ゆっくりと椅子に腰かけると、「とんぺい焼き一つ」と、無愛想に言い放ちました。
感じの悪い客だなと思いましたが、僕は加奈子さんの教え通り、愛想よく振舞わねばと、努めて元気よく声をかけることにしました。
「かしこまりましたっ!」
すると、その客はようやく顔を上げて僕の顔を見つめ、「ふんっ」と、見下したような薄笑いを浮かべました。
僕はその態度を見て頭に来ましたが、なんとか堪え、一人でとんぺい焼きを作り始めました。
そして何とか無事に完成させると、手際良く皿に盛り付け、「お待ちどおさまでした」とその客に差し出しました。
僕は「やったね」と、側で見ていた加奈子さんに、グーサインを送りました。
しかし加奈子さんはいつもと違い、にこりともせず、その客を真剣な眼差しで、じっと観察していました。
それを見て、僕は嫌な予感がしました。
すると客は、割りばしをぱちんと割って右手に持つと、一つ、二つと、とんぺい焼きの切れはしを、ゆっくりと口に運びました。
そして、何度か噛みしめた後、突然、まるでその味に驚いたようにかっと目を見開くと、両手で喉を押さえつけ、激しく咳込みだしたのです。
「げほっ、げほっ」
嗚咽にも似た咳を連発しながら、目の前でもだえる客を前に、僕はどうしたらよいのか分からず、ただただおどおどと、うろたえるばかりでした。
しかし側でその様子を見ていた加奈子さんは、いたって冷静でした。
「リュウ君。救急車を呼んであげなさい」
「う、うん。」
僕はとにかく、言われた通りに、電話で119番通報しました。
そしてほどなくすると、救急車が店の前に駆け付けてきました。
外には人だまりができていて、周囲は騒然としていました。
やがて救急隊員が慌ただしく店内に入ってくると、もだえ苦しんでいる客の背中をさすって、一所懸命介抱しました。
そうこうするうちに咳は治まったものの、客の顔は真っ青で、失神状態に陥っていました。
それで救急隊員は、客を慌てて担架に乗せると、いそいそと運び出していきました。
その後のことは言うまでもありません。
僕は、騒ぎを聞いて駆けつけてきた警察官に事情を聞かれ、入院している父親に内緒で、勝手に店を開いていたことを告白しました。
もちろん、加奈子さんのことは内緒です。
そして警察官は「客に何を食べさせたんだ? 正直に答えなさい」と、僕を激しく責め立てました。
しかし僕は、初めて間近に接した、その警官があまりにも恐ろしく、完全に怯えきっていて、何も答えられませんでした。
気がついた時は、ただただ泣きじゃくる自分がいました。
その後、あの客は「てんかん」の発作を起こしたことが判明し、僕の嫌疑は無事に晴れたものの、この騒ぎのせいで、未成年が店を開いていたことがばれてしまい、店は再び閉ざされることとなってしまいました。
そしてあの日以来、加奈子さんの姿は、忽然と消えました。
こうして加奈子さんと過ごした夢のような日々は、あっけなく幕を下ろしたのでした。
(つづく)