天使のエキス (2) | 「HEROINE」著者遥伸也のブログ ~ファンタジーな日々~

天使のエキス (2)


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店に戻ると、軒下にはのれんが掲げられていて、開店準備が整っていました。

扉を開け、恐る恐る中を見回すと、店内も明かりで照らされ、すっかり生彩を取り戻していました。


まるでそこが、今まで自分がいた場所ではなく、別の世界なのではと、錯覚するくらいの変貌ぶりでした。


「お帰りなさい」


すると、加奈子さんの弾けるような声が、店内に響きました。

その時、僕は気づきました。

この雰囲気の変わりようは、照明だとか、陽の光といった物理的な明るさが作用しているのではなく、ずっと厨房に欠けていた、「女性」の優しさがもたらす、温もりによるものだと。

そんなやや戸惑い気味の僕を見て、加奈子さんはにこりと微笑むと、「さっ! 早く、早く」といって手招きしました。


僕は加奈子さんに、食材を手渡しました。

すると、加奈子さんは僕に見向きもせず、それを調理台の上に乗せ、手際よく捌(さば)いていきました。

そしてぼうっと立ちつくしている僕を見ると、「あっ、そうそう。鉄板のスイッチ入れてみて」と指示しました。


僕が言われるがままに、鉄板の下についているスイッチの場所を見つけ、入れてみると、加奈子さんは鉄板の上に指を押し当て、熱の伝わり具合をチェックしました。


「もっと熱を強くしてみて」


加奈子さんは言いました。


「でも」


僕は戸惑いました。


「いいから、早く早く」


加奈子さんが促すので、僕は仕方なくゆっくりとスイッチのつまみを右に回し、温度を上げていきました。

しかし加奈子さんは、ずっと指を鉄板に押しあてたまま考え込み、微動だにしません。

鉄板はかなり熱くなっているはずなのに、平気のへいざでした。


やはりただ者ではない―


僕はその様子を見て、またしても恐れおののきました。

そんな僕の様子など気にも留めず、加奈子さんは呟きました。


「うん。この鉄板、ちょっと薄いわね。熱の伝わり方が早いわ。焼くスピードを調整しないとね」

こうして開店の準備は、あれよあれよと言う間に、整っていきました。

そして壁時計の針が、午前十一時を回った頃、馴染みの客のおじさんが一人、戸惑いながら店に入ってきました。


「あれれ、店やってんの?」


おじさんは、厨房に立つ僕の姿を見ると、きょとんとして呟きました。

すると加奈子さんはそんな僕の隣にそっと寄り添ってきて、「何してんのよ。声かけ、声かけ。いらっしゃいませって言わなきゃ」と囁きました。

僕は慌てて「い、いらっしゃいませ」とぶっきらぼうに叫びました。

すると、おじさんは頬をにっと緩ませて言いました。


「なんだ。親父さんはいないのかい。リュウ坊が焼いてくれんだな。まあいいや。じゃあ、いつも通り頼むよ」


僕は、あまりにもおじさんが、当たり前のように注文したので、プレッシャーが一気に体にのしかかってきて、緊張のあまり、体が硬直してしまいました。

しかしそんな僕に、加奈子さんは容赦なく言いつけました。


「何してんの? ちゃんと返事しなきゃ。かしこまりましたって言うのよ。いい? お客さんには、元気に、明るく、丁寧に接すること。これが鉄則よ」


「かっ、かしこまりましたっ」


僕はまたしてもぶっきらぼうに叫んでいました。

おじさんはそんな僕を見て、ははっと、笑いました。

すると加奈子さんは真剣なまなざしを向け、僕に言いました。


「いい? ここから先は、私の言う通りにやるのよ。私はあなたに、アドバイスをすることしかできないの。残念なんだけど、私はお客さんの前では、調理することができないのよ。でも落ち着いて、慎重にやれば大丈夫。あなたならできるから」


僕には最初、加奈子さんの言っている意味がよく分かりませんでした。

でもとにかく、厨房に立ち、お客さんをこうして店に迎えてしまった以上、手を引くことなどできませんでした。

今まで父が築き上げてきた店の信頼を、ここで台なしにはすることはできない。

僕はその時、生まれて初めて社会的な責任というか、「男のプライド」というものを認識したのでした。

とにかくその時の僕は、加奈子さんのアドバイス通りに、できるだけ手際よく体を動かすことに徹するより他になく、無我夢中でした。

僕は加奈子さんの指示通り、ボールに入った豚のバラ肉に、加奈子さんが調合した調味料を混ぜ、鉄板の温度を調整した後、丁寧に一枚ずつ肉を乗せ、焼きました。

そして次の指示は、千切りキャベツやニンニクのすりおろしといった具材を、これまた事前に加奈子さんが小麦粉を溶いて作った生地に混ぜ合わせ、それを鉄板に流し込むことでした。


僕はどうにか手際よくその作業をこなし、いよいよ生地を鉄板に流し込もうとしました。

その時―


加奈子さんが「あっ、ちょっと待って」と言って、それを制止しました。


「かくし味を忘れてた」


加奈子さんはそう言って、にこりと微笑むと、人差し指を生地に突っ込んで再びひっこ抜くと、その指先をぺろりと舐めました。


「うん。いけてる、いけてる」


加奈子さんはそう言って満足そうに頷くと、なんと、その指先を再び生地に突っ込み、くるくるとかき混ぜました。

僕はその様子を見て、唖然としました。

お客さんが見ている前で、そんな不衛生なことをしてもいいのだろうか?

子供の僕でも、違和感を覚えました。

しかし加奈子さんはけろりとしていて、客のおじさんもそれに気づいていないのか、平気な顔をしていました。


「さあ、早く早く」


再び加奈子さんが促すので、僕はそのことは忘れ、慌てて次の作業へと移りました。

今度はほどよく焼きあがった生地の上に、これまた焼き上がった豚肉などの具材を乗せる作業です。

さすがにこれは、初心者では難しいと思ったのか、加奈子さんが僕の手をそっと握って、手助けをしてくれました。

そこからは、難しい作業が続きました。

今度は溶いた卵を鉄板で半熟に焼き、その上に、今まで焼き上がった全ての具材を反転させ、乗せるのです。

さらにその後、それをひっくり返すのです。

その仕上げの段階では、さすがの加奈子さんも眉間に皺を寄せ、慎重な手つきで、僕を導いてくれました。

そして―


「よしっ、いったっ!」


加奈子さんがそう叫んだ時、生地はうまい具合にくるりと反転し、見事な形のとんぺい焼きが、ひょこっと、僕の目の前に現れました。

そしてその上に特製ソースを流し込むと、完成です。


「さあ、お皿、お皿」


加奈子さんに促されるがまま、僕はへらを使って、ぎこちない手つきながらも、完成品をどうにか皿に乗せると、「お、お待たせしました」と言って、おじさんに差し出しました。

おじさんは「おおっ、すごいね」と、感心して頷きました。

そして、箸で一切れ、二切れとつまんで口に入れると、「うまい、うまい」と言って満足そうに微笑みました。

僕はその様子を見て、ほっとしました。

こうしておじさんは、とんぺい焼き平らげると、勘定を済ませた後、僕に言いました。


「リュウ防、すごいじゃないか。たった一人で、こんなに立派なとんぺい焼きが作れるんだからな。親父さんが羨ましいよ。いい跡取りができてさぁ」


一人? 一人って、どういう意味なんだ? まさか……

そう。そのおじさんの言葉で、僕はやっと悟ったのでした。

加奈子さんの姿は、僕以外の人間には、見えていないのだと。

僕は「じゃあ」と言って右手を軽く上げ、店を出ていくおじさんの背中を、狐につままれたような気分で、じっと見つめていました。


「だめでしょう。声かけ、声かけ。ありがとうごさいましたって言わなきゃあ」


そんな僕の肩を、加奈子さんはそう言って、優しく叩きました。

僕は恐る恐る後を振り返ると、加奈子さんの顔を、ひきつった顔で見つめていました。


(つづく)

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