箸にも棒にもかからない男 (後編)
箸やスプーンの入ったビニール袋を握り締めたまま、私は公園を出ました。
あの人は、なぜ、こんな物を私に残したのだろう?
私の頭の中は、そのことばかりでした。
これから、葬儀の段取りや、役所への届け出など、やらなければならないことが山ほどあるのに、その疑問点ばかりが気になりました。
そうこうしているうちに、私の心の中は、自分に対する嫌悪感で一杯になりました。
夫が亡くなってしまったというのに、涙ひとつ流さない、いや流せない自分の薄情さ―
私はなんでこんな人間になってしまったのだろう?
私は呆れて、ついため息を吐いていました。
そうだ。
少しでもいい。
あの人が、どんな気持ちで、あんな荒んだ生活を始めたのか。
あの人の身になって考えてみれば、きっとあの人に、もっと感情移入ができるかもしれない。
私はそう決心すると、再び公園に戻り、テントにいたあの老人を訪ねました。
そして、あの人がここでどんな生活をしていたのか、教えてもらうことにしました。
老人はぼそぼそと、いろんな話をしてくれました。
あの人が、私のことを忘れるため、もう二度と私には会うまいと、固く決意していたこと。
そして時折、工事現場で日雇いの仕事をしていたこと。
そして、亡くなる一ヵ月前からは、体調を崩し、一日中テントで寝そべっていたこと。
にもかかわらず、毎晩コンビニへはせっせと通い、幕の内弁当を買って食べていたこと。
このビニール袋に入っている箸やスプーンは、その間に貯めこんだもののようです。
私はふと、そのコンビニであの人と同じように幕の内弁当を買い、ここで食べてみようと思い立ちました。
そうすることで、あの人の気持ちが、もっと理解できるような気がしたのです。
私は老人に、あの人が通っていたコンビニの場所を聞き、さっそく行ってみることにしました。
あの人が利用していたコンビニは、公園から歩いて五分ほどの場所にある「セブンイレブン」でした。
私は店を見つけると、そっと入口の前に立ちました。
すると不思議なことがおこりました。
なぜか急に背筋がぴんと張りつめ、異様な緊張感に、私の体が支配されたのです。
私は震え始めた体をどうにか抑えながら、そっと店の中へと入りました。
「いらっしゃい……」
入ったとたん、レジの若い女性の店員が、私に声をかけようとしましたが、私の顔を見るなり、凍りついたように固まってしまいました。
そのあんぐりと口を開け、どんぐり眼で、おどけたように私を見つめる顔―
その顔には、見覚えがありました。
「そ、そんなっ、お姉ちゃん?」
それは小学生の頃に離れ離れになり、以来居場所も分からず、音信不通になっていた、妹の亜季だったのです。
「あ、亜季ちゃん?」
私は思わず、声を張り上げていました。
思いがけない再会でした。
どこにいるのか、ずっと心の片隅で、気にはなっていたものの、今まで生きることに精いっぱいで、本気で探すことができなかった妹―
その妹が、目の前にたたずんでいたのです。
「ああっ!」
私ははっとして声を上げると、手にしていたビニール袋を見つめていました。
私は、その時気づいたのです。
あの人は自分の死を予期して、この事を私に伝えるために、わざとこの箸やスプーンを残したのだと。
箸にも棒にもかからないあの人が、最期に、私と妹のかけ橋になってくれた―
その時、私の眼から、涙があふれ出しました。
私には、妹との再会よりも、あの人の温かい気持ちに触れられたことが、なによりも嬉しかったのでした。
私はその時、ようやく人間らしさを取り戻せたような気がしました。
(了)